キリスト教と私

教会員によるキリスト教との出会いの体験談

教会に来られている方々が、どのようにしてキリストに出会い、
どのようにして新しい人生を送るようになったのか、体験談をご紹介します。

2023.05.21

「罪から救われた喜び」小山 正子

聞き手:今回は、以前、近放伝のラジオ番組「福音の光」で放送された小山正子さんの証しを掲載させていただきます。
なお、「福音の光」は毎週土曜日・日曜日の午前4時30分から30分間、朝日放送(1008kHz)で放送されています。

 私は長い年月、まことの神様の存在も知らず、まして自分が罪人だなどと思うことなく、むしろいい部類の人間ぐらいに思って生きてきました。そんな者が、ただ神様に憐れんでいただき、教会に導かれました。

 両親の相次ぐ死という現実に直面し、心に大きな穴がぽっかり空き、目に見えるものも人の心も、いや何より自分の心も変わっていく中で、変わることのない本当のものを漠然と求めていました。

 そんな時、宝塚栄光教会へ誘われました。初めて出席した集会は祈祷会でした。数人の人が真剣にお祈りされている姿に、初めは戸惑いましたが、何度か行くうちに、ここに何か大切なものがあるように思いました。

 み言葉を聞いていくうちに、“罪”とか“罪人”という言葉が耳につくようになり、心の中で、“私は罪人ではない”とつぶやいていました。そのうちどうにも腹が立って、“心に平安がほしくて来ているのに、罪人扱いされて気分が悪いです”と、先生の所に言いに行ったのです。先生は、“そうですね。み言葉を聞き続けてください”とだけ言われたことを、はっきり覚えています。

 その後、み言葉を聞いていくうちに、聖書の中の人物が自分と重なり、自分は言われる通りの罪人ではないかと思うようになりました。そして、ある夜、静かに自分という人間と向き合いました。神様を無視して己を神として生きてきた生涯は、あまり満足のない悲惨なものでした。物心ついたころからのことが次々と思い出され、あのこともこのことも罪だったんだ、意地悪で汚い心、愛などかけらもない偽善者の私、まぎれもない罪人でした。

 それが分かった時、あれほど分からなかったイエス様の十字架が、この私の罪のためだったとはっきり分かりました。そしてその罪を片時も持っていることができず、先生の所へ行き、神の前で思い出す限りの罪を悔い改め、イエス様の十字架を信じました。その時、「心安かれ、汝の罪赦されたり」とのみ言葉を先生から言っていただき、私は救われました。うれしかったです。

 こうして罪から救われると、もつれていた糸がほどけていくように、いろいろなことに解決がついていきました。今までの価値観や生き方、日常生活も変わっていきました。罪の解決は、世の中のどこへ行ってもありません。ただイエス様の流された血汐によってのみ解決があることを知りました。

 あれから30年の月日がたちましたが(2019年9月現在―編集者注)、変わることのない真実な神様は、日常生活のただなかに生きておられます。思わぬことが起こる中にあって、いつもこの罪人の私のために十字架にかかられたイエス様、復活されたイエス様を仰ぎ、勝利をいただいて歩む者へと変えていただきました。

 いつも教会でみ言葉を教えられ、育てていただいています。この大きな救いのみわざを日々感謝しつつ、神を畏れ、イエス様にしっかりと目を留めて、信じて従っていく者でありたいです。また周りの多くの人たちが、このイエス様と出会い、救われるようにと祈っています。

(2019年9月7日(土)放送)