「神様の導きとお叱り」甲斐 弘二
- 聞き手:今回は11年ほど前に西宮のある教会で洗礼を受け、9年ほど前に宝塚栄光教会に転会された甲斐弘二さんに登場していただきます。甲斐さんがこの教会を知られたのは、確か近放伝のラジオ番組を聞かれたのがきっかけだったのでしたね。
- 甲斐兄:はい、そうです。土曜日の朝4時半からの「キンポーデン福音の光」という番組だったと思います。仕事の関係で早朝に起きていて、たまたまラジオをつけたらその番組だったのです。
- 聞き手:“たまたま”と言われましたが、神様のお導きだったのでしょうね。
- 甲斐兄:本当にその通りです。もしその日が早番でなく、ラジオを聞くことがなかったら、今の私はなかったと思います。
- 聞き手:ところで甲斐さんは面白い趣味を持っておられると聞きましたが。
- 甲斐兄:はい、私は鉄道マニアです。いわゆる“鉄ちゃん”ですね。阪急電車やJRなど様々な鉄道の写真を撮りました。
- 聞き手:また一度写真を見せてください。
- 甲斐兄:喜んで!
- 聞き手:では、お証しをどうぞ!
神様の導きとお叱り
私は幼い頃から会話が下手な性格で、自ら進んでコミュニケーションを取るのがとても苦手でした。会話が上手くいかないと周囲の人に笑われ、からかわれた事が嫌になり、人との交流を避けてきました。
そんな私の心の安らぎとなるものはTVゲームでした。ゲームをしている時は嫌なことも忘れ、家にいるときは朝から夜まで、ほとんど毎日の様にTVゲームに没頭していました。ゲームの事で両親から色々言われると、人やものに当たるようになりました。
やがて自分への劣等感と絶望感を抱え、生きるのが辛くになり、本当に死にたいと思うようになりました。
ある日、祖母が病で亡くなりました。祖母はクリスチャンだったので、キリスト教式の葬儀で行われました。葬儀の説教の中で、司式をされていた牧師から
「生きるのに本当に大切なものはお金や権力、財産といった目に見えるものではなく、愛や優しさ、勇気といった目に見えないものです。」という言葉が語られました。この言葉は私の心に深く残りましたが、教会に行きたいという思いはありませんでした。
祖母の葬儀から3年が経ち、30歳になる年を迎えました。「自分は何のために生きているのだろう。本当に生きるってどういう意味なのだろう。」と考えるようになりました。そして、祖母の葬儀での説教の言葉を思い出しました。また幼い頃に幼稚園の日曜学校にも行っていたので、教会に行きたいという思いが強くなりました。
家から車で10分ほど行ったところに大きな教会があったので、その教会に通うようになりました。教会の会堂に入った時、静かなオルガンの奏楽を聞き、讃美歌を歌うと心が静まり、まさに安らぎの場でした。聖書の学びでは、十字架の救いや祈りの事等について色々と学びました。教会に通うようになってから、今まで夢中になっていたTVゲームをしなくなりました。
教会に通い続けて4ヵ月が経ち、自分も洗礼を受けたいと思うようになりました。そして半年間、洗礼に向けての聖書の学びを受けました。洗礼を受けた時、喜びに満ち溢れ大泣きしました。
しかし、洗礼を受けてから約2年後、私は人間関係につまずきました。通っていた教会を離れ、しばらく違う教会に通うも、教会に通う事だけに満足し、内心は虚しいものでした。もう一度原点に立ち返り、自分の内面の改革と成長に繋がる教会へと導いてくださいと、祈り続けました。
土曜日の早朝、ラジオで宝塚栄光教会の案内があったので、インターネットで教会のホームページを見ました。ホームページから岩間牧師の礼拝メッセージを聞き、兄弟姉妹の証を読んでいると、とても励まされました。そして宝塚栄光教会に行きたいと思うようになりました。
教会に行くようになってから、礼拝メッセージの中でよく、自分のうちにある傲慢や自己中心となる自我を、信仰と意志をもって十字架につけ、悔い改めなさいと語られていました。正に自分の事だと気づかされました。
転会の学びの中で、岩間牧師から「甲斐さんはイエス様の十字架の救いによって罪が赦された確信がありますか?」と聞かれた時、救いの確信について理解できず、曖昧なままでした。
このままでは神様のところへはいけないと知り、神様の前で自分が今まで犯してきた罪を告白しました。そして、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された(マタイ9:2)」の御言葉が与えられた時、私の目は涙で止まりませんでした。
過去を振り返ると、私は自己中心で、人に良く見られたいと高ぶり、自分を守るために隠し事や嘘をついてきたという自分の内面の汚れと醜さに気付かされました。人とのコミュニケーションが苦手であっても、神様に委ねていけば道は必ず開かれると信じるようになりました。
こんな愚かな私でさえ、神様は救いへと導いてくださったと思うと、感謝と喜びでいっぱいです。
今も礼拝のメッセージを聞き続ける中で、「傲慢や自己中心となる自我を、信仰と意志をもって十字架につけ、悔い改めなさい」と語られています。何度も聞くうちに、自分への苛立ちを覚えることがありました。しかし、厳しいメッセージでも、間違った方向に進ませなくするための、神様の愛による自分へのお叱りであると思うようになりました。
自分と向き合い、信仰と渇きをもって求め、神様を信じる者でありたいです。