「基督(きりすと)の十字架」安原 泉
- 聞き手:今回は、まだついこの間洗礼を受けたばかりの安原 泉さんにご登場いただきます。安原さん、洗礼を受けられて、おめでとうございます。
- 安原兄:ありがとうございます。
- 聞き手:安原さんは、昨年の3月に洗礼を受けられて、このコーナーにも登場していただいた安原茂樹さんのお父様ですよね。
- 安原兄:はい、そうです。そもそも私が教会に行くようになったきっかけは、その茂樹がクリスチャンになって、すっかり変わったことを目の当たりにしたことでした。人をあれほど変える力があるキリスト教とは、いったいどんなものかを知りたいと思ったのです。
- 聞き手:安原さんは、教会のデイサービスも利用しておられるとお聞きしましたが。
- 安原兄:はい、日曜日は教会の礼拝に行き、木曜日は教会のデイサービスに行きと、教会に出入りすることが多くなって、心がとても安らぎます。
- 聞き手:これからこうしていきたい、という願いをお持ちですか。
- 安原兄:もう90歳が近い老人ですが、気持ちは若いですから、天国に迎えていただくまで、聖書をよく読み、教会でお話をよく聞いて、精一杯イエス様に仕えていきたいと思っています。
- 聞き手:ありがとうございました。では、お証しをお願いします。
一昨年息子が教会に通い始め、何かの力を戴いたのか、変わったなと思うようになりました。そして私たち夫婦は、教会は深みのある話を聞けるところらしいと興味を持つようになり、息子に連れられて初めて教会を訪れたのが昨年の暮れ近くでした。
初めての教会、どのような進行があるのか、緊張したまま行事は進み、終わるとほっとしたものの、讃美歌が流れ、牧師様の噛んで含めるように優しい語り口の説教など、好印象でまた行ければ行こうと思い、以後日曜礼拝をできるだけ続けていました。そして聖書は私たちへの行動の指針をちりばめた尊いものであって、聖書を知り、さらに説教による細部にわたる話を伺う機会である日曜礼拝は、積極的に参加したいと願うようになりました。
今年5月ごろから我が家の勉強会といいますか、二人して毎晩聖書の音読をいたしており、このことで私は成長し神様への目覚めがありました。齢80を超した私ですが、今までは平然と私は私だ、身を慎んでいたならば私の平安はあるのだと身勝手な考えで、神様を知らぬままに高ぶりそして愚かな罪人であったことに気づかされたのです。
または神様は愛をこめてすべての人が救われるのを望んでおられました。
救われる道を開くために、神様は御子イエス様をお遣わしになり、何の罪もないイエス様を十字架につけ、尊い血を流すことをいたされました。私たち愚かな罪人の罪を赦し清めてくださり、そして私たちが救われる道が開かれているのを知りました。
聖書を読むだけではいけない。行動で私が変わらなければいけない。イエス様の十字架を信じてお祈りをし、罪を赦して頂かなければならない。道を開かれた神様の深い愛とみ恵みへの感謝を忘れてはいけない。古い衣を捨て新しい衣で身を包み、頂いた救いに感謝し、お応えに値するまで信仰を高めることに努めようと決意している次第です。