ふさわしい者たち
ヨハネ黙示録3:1-6
今日は、ヨハネの黙示録の冒頭、7つの教会に宛てられた使信の中から、サルディスの教会に宛てられた箇所が開かれている。サルディスの町は、現代のトルコ西部に位置し、交通と交易の要所として繁栄していた。当時の最先端とも言える産業が町に巨額の富をもたらし、町の人々は比較的生活水準の高い暮らしを謳歌していたようだ。その反面、経済的、物質的な豊かさが、人々の心を怠慢や腐敗へと向かわせていたようで、教会の中にも蔓延していた。明らかに、サルディスの教会は霊的な怠惰という危機に直面していた。
まず、今日の箇所の前半には、彼らの霊的怠惰がどのようなものだったかが指摘されている。「生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」(1節)とは、まさに端的な表現だろう。自分たちはクリスチャンだ、生き生きとして「生きている」と思っていても、キリストの救いに対する感謝や心からへりくだって神を信じる信仰がそこにないなら、神がご覧になって「実は死んでいる」と言われても仕方ない。「行いが…完了し」(2節)ていないというのも、彼らの怠惰から来る高ぶりの姿だ。必要なことは、「目を覚ま」(同)すことだ。自分の姿に気づくことができるからだ。さらに、伝えられた福音に立ち返り、「どのように受け、聞いたのかを思い起こ」すことだ(3節)。そして、「それを守り、悔い改め」(同)るなら、今がどのようなときか、自分たちがどうあるべきかがわかる。
「目を覚さないなら、わたしは盗人のように来る」(同)は、パウロの言葉を彷彿とさせる(1テサ5:1-10)。私たちは、本来、罪の中に生き、滅びを免れない存在だった。そんな私たちを神は憐れみ、キリストの救いに招き入れてくださった。キリストが十字架にかかって死に、死を破ってよみがえられたのは、私たちが自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じることによって罪の赦しと滅びからの救いをいただくためだった。こうして救われた私たちは、自分の救いを感謝しつつ、さらなる霊の成長を目指して進むべきだ。なぜなら、私たちが救われたのは、その場にあぐらをかいて座り込むためではなく、「主とともに生きるようになるため」(同10節)だからだ。
救われた者はやがて必ず、自らの中にある肉の姿に気がつく。なおも罪にとどまり、神に逆らい、神よりも己が腹を優先させる汚れた性質だ。この肉を温存している限り、「盗人のように」突然おいでになる主の前に立つことはできず、「裸で歩き回って、恥ずかしい姿を」さらけだしていることになる(黙16:15)。私たちがなすべきことは、「目を覚まして衣を着ている者」(同)、すなわち、キリストに内に生きていただく者となることだ。私たちが、自らの姿を認め、砕かれて神の前に出ていくなら、十字架が示される。示された十字架に自らの肉をつけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19,20)。内に生きて働かれるキリストを通して、私たちは神に喜んでいただける者として歩むことができる。
今日の箇所の後半を見たい。「わずかだが…者たちがいる」(4節)には、”名前を持つ”という表現が使われており、1節の「名ばかり」に対比されている。これこそ、キリストを内にいただいた者の姿だ。キリストを内にいただき、キリストの名をいただいた者は、キリストと共に歩むのにふさわしい者の姿だ(同)。そして、キリストと共にサタンに勝利を得ることができる(ヨハ16:33b, 黙3:12)。「勝利を得る者は、…白い衣を着せられる」(5節, 7:9,10, 13-17)。こうして、キリストとともに勝利を得る者は、その名が「いのちの書」から消されることなく、神の御前で言い表していただく(5節, 黙20:12)。
私たち は、キリストと共に歩むのにふさわしい者となっているか。私たちの姿は、神の前にどうか。自らの姿を省みて、主の前に出ていきたい。