礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2025.02.23

義の宿る新しい天と新しい地

Ⅱペテロ3:1-18

ペテロの手紙第二は、キリストの弟子ペテロがその晩年、各地のクリスチャンたちに宛てて書いた書簡だ。彼らは、キリストの救いに根差した純粋な福音から逸れた間違った教えを吹き込む者たちによって、惑わされる危険に晒されていた。ペテロは、そんな彼らを励まし、初めに教えられた純粋な福音を思い起こし、信仰に踏みとどまるように、この手紙をもって薦めた(1:12-15, 1,2節)。とりわけ、彼が強調したのは、倦むことなくキリストの再臨を待ち望むようにという点であり、それが今日開かれている箇所の内容だ。

今日の箇所に、神に喜ばれない人々の姿が4通り描かれている。「嘲る者たち」(3節)、「不敬虔な者たち」(7節)、「無知な、心の定まらない人たち」(16節)、そして、「不道徳な者たち」(17節)だ。

「嘲る者たち」、「不敬虔な者たち」とは、世の人たちだ。神を知らず、信じてもいない彼らは、神を信じ、神の言葉に従う者たちを馬鹿にして嘲笑う。十字架にかかられたキリストが同じ愚弄を受けられた(ルカ23:36,37)。共に十字架に付けられた犯罪人たちも、イエスを嘲った。だが、そのうちの一人は、途中で嘲りをやめ、イエスを救い主と信じて救われた(ルカ23:39-43)。十字架の下でも、ローマ人たちがイエスを神の子と認めた(マタ27:54)。このように、クリスチャンを嘲る者たちは、まだキリストと出会っておらず、神がおられることも、自分たちが滅びることも知らないのだ。私たちもかつては、そのような者たちだった。神を知らず、神から離れ、罪のために滅びる者たちだった。そんな私たちを滅びから救うために、キリストは十字架にかかって死に、死を破ってよみがえられた(ロマ5:6)。私たちがどんな罪の中にいようと、神を知り、キリストと出会い、罪を悔い改めて、キリストを救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる。このキリストの救いは、全ての人に開かれている。神は一人でも多くの人がこの救いに与るようにと、忍耐しておられる(9節)。だから私たちも、まだ神を知らず、キリストと出会っていない人たちのためにとりなし、忍耐をもって祈っていくべきだ。

「無知な、心の定まらない人たち」、「不道徳な者たち」とは、どのような人々だろうか。これは、神を信じていると言いながら、神に背き続ける者のことだ。「無知な」とは、学ぼうとしない、成長しようとしないという意味だ。「心の定まらない」とは、力付けられることがない、弱いままでいるという姿を表している。「不道徳な」は、本来固く据えられているべきものが据えられていないというニュアンスの言葉だ。これは、救われてもなお内にある肉を温存し、やがて救いさえも失ってしまう者の姿だ(2:20,21)。私たちの内にも、このような姿がないかと光を当てられたい。そして、自らの肉の姿を認め、神の前に出ていきたい。私たちが砕かれて神の前に出るなら、神は十字架を示してくださる。示された十字架に、私たちが自らの汚れをつけるとき、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。私たちは、内におられるキリストを通して、新しい人となることができる(2コリ5:17, コロ3:9b,10)。

「義の宿る」「新しい地」(13節)とは、私たちのことだ。私たちが、内に義なるお方、キリストに宿っていただくとき、真の意味で、キリストの再臨を待ち望むことができる。キリストの再臨を待望する心は、そのまま私たちの魂の状態に直結しているのだ。だから、「神の御前に出られるように」(14節別訳)生きることが必要なのだ。このようにして、内なるキリストによって新しくされた人は、キリストと共に引き上げられ、新しい天に臨むことができる(黙21:1-8)。

キリストの再臨は刻々と近づいている。私たちは、自らがどのような魂となっているかを主に問うていただき、新しい天と新しい地を待ち望む者となりたい。