主の救いを見よ
Ⅱ歴代20:14-23
イスラエルの歴史は、神の贖いの歴史だ。エジプトから贖い出された主なる神がいかに民を愛されたか、民がいかに主に従ったか(または従わなかったか)が記録されている。
ヨシャパテはユダ王国4代目の、数少ない素晴らしい王だった。彼は全き心で神に従い、神から豊かな祝福をいただいた(17:3-6、19:4-7)。そんな彼にも危機が訪れた。モアブ、アモンの連合軍の攻撃を受けたのだ(1節)。彼はどう戦ったのだろうか。
ヨシャパテは恐れた。相手は大軍だ。大胆に偶像を除いた彼も、大軍の前におののいた。しかしあわてず、うろたえず、直ちに主に求めた(3節)。他に助けを求めず、ただ真実な主により頼んだ。
彼は注ぎ出して主に祈った(5-12節)。彼は自分の無力さに徹し(12節)、「ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」と、主なる神に絶対的に信頼した。自己への絶望と神への信頼、自己の無能と神の大能こそ私たちの武器だ(創17:1)。神を信じるとは、もはや自分を信じないことだ。ヨシャパテは、徹底的に砕かれた心で主の前に出た。各々家族全員が御前に出た。王がそうしたから民もならったのだ。
預言者ヤハジエルを通して主から答えがあった(15-17節)。主は、この戦いは主の戦いだ、主自らが戦うと言われた。戦い給う主、勝利を得給う主が共におられる、と臨在の主が鮮明に現された。己れに頼まず、主にのみ信頼したヨシャパテヘの主の答えだった。彼は励まされた。
ヨシャパテは、「あなたがたの神、主を信じなさい…」(20節)と言った。見えるところはどうであれ、神を信ぜよと言った。神への信仰なしには、堅く立てない。すぐに揺れ動く。主の言葉を語るべく立てられた預言者に聞き従わずしては、益はない。
彼は民に命じ、主なる神に向かって賛美させた(21節)。賛美は信仰に立ったことの現れだ。勝利はまだ得ていない。戦いはこれからだ。しかし、すでに得たと信じて賛美したのだ。信仰の先取りの賛美だった(詩102:19新共同)。民が信仰に立って賛美し始めたとき、主は伏兵を設けられた(22節)。人間の策略ではない、万軍の主の計らいだ。
結果は主の圧倒的勝利だった(24-30節)。敵は一人も逃れた者はなく、多くの分捕り品が与えられ、民は喜びの凱旋をした。諸国への証しにもなった(29節)。民が主を信じ、主なる神に従ったため、主が勝利を見せられ、さらに周囲の民がまことの神への畏怖をいだいたのだ。こうして主は国内に安息を賜わった(30節)。
神は私たちにも戦いをお与えになる。第一には、自分自身の霊性のための戦いだ。「畏れ戦きて己が救を全うせよ」(ピリ2:12文)。救いを全うするためには戦わなければならない。不信仰との戦いだ。主イエスは十字架で贖いを完成された。救いと聖潔(きよめ)は成し遂げられている。主の戦いだ。主が成し遂げてくださったのだから、私たちは信仰をもって受け取りたい。
第二には、滅び行く魂のための救霊の戦いだ。占いの霊につかれた女はキリストの福音によって救われた(使徒16:16-18)。私たちも、悪魔の手中にある多くの魂を奪還しなければならない。ここでも不信仰との戦いがある。主が救おうとされる魂を、私たちが不信仰のために見切りをつけてはならない。私のような者をも救ってくださった主イエスは、必ず彼をも救ってくださると信じて祈り、伝えていきたい。賛美をもって、先取りの信仰で戦おう。主は思いもかけない伏兵を設けてくださる。
万軍の主が先頭に立って戦ってくださる戦いだ。この主への信頼と信仰をもって主の勝利を見させていただきたい。