礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2025.02.09

教会の土台

マタイ16:13-20

今日の箇所は、ペテロがイエスへの信仰を告白した重要な場面だ。ルカとマルコも同じ場面を記していることから、福音書にとっても、新約聖書全体にとっても、重要な位置付けにあるとわかる。

ピリポ・カイサリアの町の郊外には、偶像を祀った祭壇があった。また、町の中には、皇帝の像を安置した神殿もあった。偶像も皇帝も拝むこの地方へ、イエスは足を向けられた。マルコでは、村々を回られたとある(マル8:27)。ルカは、祈っておられるイエスの姿を記している(ルカ9:18)。その祈りは、もしかしたら、が福音を拒むその地方の人々の魂のためだったかもしれない。また、ご自分が成し遂げる十字架と復活による彼らの救いのためだったかもしれない。さらには、後の時代、福音を伝える使命を担い、福音を伝え続けていく役割を果たす教会のために、早くも祈っておられたのかもしれない。

さて、ペテロの信仰告白に目を留めたい(17節)。ギリシャ語聖書も、英語の聖書も、語順が”あなたは、キリスト、神の子、生きておられる”と、真逆になる。まず、キリスト、つまり救い主と、開口一番に彼は告白した。この方こそ救い主だ、この方以外に私たちの救いはないと、彼は確信していた (使4:12)。そして、神の子であると続く。この方は、神のもとから遣わされてこられたのだ、と彼は確信していた。既に弟子たちはイエスの驚くべき奇跡を目の当たりにしていた(マタ14:33)。神から遣わされた方であるという確信は揺るぎないものになっていたはずだ。さらに、神は生きておられる。何もできない偶像や皇帝のように、死んだ“神”ではないと、彼は告白したのだ。

私たちも、イエスを、神から遣わされた救い主と信じ、神が生きて働いておられると信じたい。神は、私たちを罪と滅びの中から救い出すために、ひとり子キリストを私たちのもとに遣わしてくださった。キリストの十字架と復活によって、神の救いの道は完成した。自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、私たちはこの救いをいただくことができる。生きて働いてくださる神が、私たちを永遠の命に至る道へと導いてくださる。私たちはまずこのキリストの救いをいただき、キリストを信じる信仰の道を歩み始めたい。

ペテロの信仰告白の後、イエスは初めて十字架と復活を予告された(21節)。それをいさめ始めたペテロに対して、イエスは鋭く「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と戒められた。私たちが神のことを思わず、人や自分を神より優先させるとき、教会は崩れ始める。救われた後の私たちの内側には、このような肉がある。それを放置するなら、私たちは滅びる。私たちが自らの姿を認め、砕かれて神の前に出るなら、十字架が示される。示された十字架に己をつけ、始末するとき、キリストが内に臨み、生きて働かれる(ガラ5:24, 2:19b, 20a)。私たちは、内におられるキリストによって、信仰に固く立って生きることができる。

イエスは、ペテロの信仰の上に教会を建てると言われた(18節)。キリストを信じる信仰こそ、教会の土台だ。私たちが、救いから離れず、信仰を堅く保つなら、教会は揺るがない(コロ1:23, 1コリ3:11)。イエスが彼に言われた「天の御国の鍵」(19節)とは、イザヤの預言につながる(イザ22:22,23)。ここに「杭」と出てくる。教会の土台は信仰、その土台を強固にする杭はキリストの十字架だ。私たちの信仰は、キリストの十字架に根差しているか。同じ「鍵」が黙示録にある(黙3:7-13)。こちらには「柱」が出てくる。教会の柱は、私たち救われた者たちだ。イエスが「地上でつなぐことは天においてもつながれ…」という言葉は、祈りを表している(マタ18:18-20)。魂を神のもとにつなぐ祈りをささげることができるのは、先に救われた私たちだ。

私たち一人一人の信仰が、教会の土台である。自らの信仰はどうなっているかと、神の前に光をあてられたい。