礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2025.01.12

強くあれ。雄々しくあれ

ヨシュア1:1-9

ヨシュア記は、ヘブル語聖書では預言書に分類される。アブラハム、イサク、ヤコブに神が預言し約束されたことが、ヨシュア記から果たされていくからだ。歴史的には、モーセに率いられてエジプトから脱出したイスラエルの民が、約束の地カナンへ入植していく様子を、ヨシュア記は記す。その冒頭の場面が、今日は開かれている。

ヨシュア記は、主の言葉によって始まる。開口一番、主はモーセの死を告げておられる(2節)。前の申命記の最後にも記されている(申34:1-8)。モーセは主に愛され、民に慕われ、偉大な人物だった。だが、約束の地に民を導き上るのは、そんなモーセではなく、ヨシュアだった。新約の光で見ると、ヨシュアの名前は、”主は救い”という意味で、ギリシャ語に訳すと”イエス”となる。イエス・キリストの型だ。モーセは、神から律法を授けられた、律法の代名詞的な存在だ。私たちを約束の地に導き入れるのは、律法ではなく、キリストであることが示されているのだ。神が与えた律法に非があるのではない(ロマ7:7)。律法は神の御心だ。しかし、私たちはその罪のために、律法に従うことができない(ロマ3:20)。私たちは、この罪のために滅びる者だった。そんな私たちを憐れんでくださった神は、御子キリストを遣わしてくださった。キリストが十字架にかかって死に、死を破ってよみがえられたことによって、私たちに新しい救いの道が開かれた。どんな罪を犯した者であっても、自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、滅びから救われる。律法ではなしえなかった救いが、キリストによって与えられたのだ(ロマ3:21-24, ガラ2:16)。

さて、主はヨシュアに次の約束を示された。約束の地を与え、領土とする(3,4節)。また、神がともにおられるから、あなたの前に立ちはだかるものはない(5節)。かつてモーセにも同じ約束が与えられた(申11:22-25)。どちらに対しても、約束には条件が伴った。神の命令に従うことだ(申11:22a,7,8節)。この条件が満たされて初めて、神は約束を民の上に果たされるのだ。実際、ヨシュアとイスラエルの民のこの後の歩みを辿ると、彼らが主に従っているとき、彼らは戦いに勝利し、約束の地を攻め取ることができた。逆に、彼らが主に従っていないときは、彼らは負け、攻め取ることができなかった。

キリストの救いをいただいた者にも、神は約束と条件を示されている。地上において勝利の歩みを送り、天において永遠の命をいただいて生きることができるという約束と、神の御心に従うならばという条件だ。救いをいただいた者はやがて必ず、自らの内に、神に従っていない姿があることに気づく。表向きは従っているように見せかけているが、実は従っていない裏の顔がある。従おうとしても従えない、いや、実のところ、従いたくなんかないとすら思っている本音がある。こうした肉を抱えている限り、神の約束は果たされず、不勝利の歩みを送り、最後は滅びてしまう。私たちが自らの姿を認め、砕かれて神の前に出ていくなら、十字架が示される。示された十字架に自らの肉をつけて始末するとき、内にキリストが臨み、生きてくださる(ガラ5:24,ガラ2:19,20)。我が内に生きて働いてくださるキリストを通して、私たちは神の御心に従う者となる。神の約束は豊かに果たされ、主を信じる信仰によって勝利することができる。終わりの日に、「良い忠実なしもべ」(マタ25:21)として、内住のキリストとともに勝利に与り(黙17:14)、神のもとに迎え入れられ、永遠の命に生きる。

「強くあれ。雄々しくあれ」とあるが (6,7,9節)、その秘訣は、与えられている神の御言葉に対して、彼自身が信仰に堅く立つことだ。私たちにも、神は「強くあれ、雄々しくあれ」と語りかけておられる。私たちが、キリストを信じる信仰に堅く立ち、神に従っていくとき、強く、雄々しく歩んでいくことができる。私たちを弱らせものは必ず来る。神を信じ、神に従い、強く、雄々しく歩んでいきたい。