礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2024.12.29

感謝の賛歌

詩篇100:1-5

本日は年末感謝礼拝だ。今年、主が真実をもって祝福してくださったことを感謝したい。聖書の中に主への感謝を表す箇所は多くある。けれども、表面的な感謝で済ますような記述はひとつもない。その程度の感謝なら、神を知らない世の中でも推奨され、賞賛されている。聖書が語る感謝は、もっと深い。

詩篇100篇も、感謝を表す箇所の一つだ。標題に「感謝の賛歌」とあるが、脚注には「あるいは『感謝のいけにえの賛歌』」と記されている。これは、律法が定めた項目の一つで、主にささげるいけにえのことだ(レビ7:11-15)。それによると、まず「感謝のいけにえ」は、「交わりのいけにえ」として献げられなければならない、とある。「交わりのいけにえ(英語ではpeace offerings)」とは、神と人との間の関係のことだ。神と人との間が平和な関係でないと、感謝のいけにえを献げたことにはならないのだ。私たちは本来、神の民として神との平和を享受する存在だった。しかし、罪が入り、神と私たちとの関係は崩れた。平和は損なわれ、私たちは神から遠く離れ、そのままでは滅びるものとなった。そんな私たちが滅びるのを惜しんでくださった神は、私たちにひとり子キリストを遣わしてくださった。キリストが十字架にかかって死に、死を破ってよみがえられたことによって、私たちに救いの道が開かれた。どんな罪を犯した者であっても、自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、罪を赦され、滅びからの救いをいただくことができる。神との平和は回復し、私たちは神との交わりを享受することのできる者となる(ロマ5:1)。こうして、キリストの救いを明確にいただいた者は、自分がいただいた救いをいつも感謝する。神に感謝し、周囲の人に感謝する。キリストによる神の平和が心にあるから、感謝が湧き上がってくるのだ(コロ3:15)。

今日の詩篇に戻りたい。1,2節には「喜び」という言葉が繰り返されている。世が提供する喜びではない。キリストの救いをいただいた者が、神にあって喜ぶのだ。あなたの心の中には喜びがあるか。主に向かって喜びの声をあげているか。喜びをもって主に仕えているか。喜び歌いつつ御前に礼拝を献げているか。救われた者は、やがて必ず、この問いにYESと答えられない自分に気が付く。心の中に神への喜び、神から来る喜びがないことに気が付く。思い通りにならないと、主に向かってあげる声が不平や不満、苛立ちや恨みに変わる。御前で主に仕えているはずなのに、心の中に喜びなどどこにもない。それどころか、実は辟易している本音がある。こうした実態の根は肉だ。罪の性質が残っているのだ。この肉を抱えたままでは、私たちはやはり滅びてしまう。再びレビ記7章を見ると、「油」と「種なし」という単語が繰り返されていることに目が留まる(レビ7:12,13)。「油」は聖霊、「種なし」は不信仰を取り除いた心を表す。肉を始末し、聖霊によって新しくされ、不信仰を取り除いた心こそ、感謝のいけにえを献げるのにふさわしいということだ。私たちが自分の肉を認め、神の前に出ていくなら、十字架が示される。示された十字架に肉をつけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b, 20a)。内に働いてくださるキリストを通して、私たちは喜びをもって主の前を歩み、主に受け入れていただける感謝のいけにえを献げることができる。

3節には、主こそ神であることを知るように、とある。キリストに内に生きていただく者は、かつての肉がのさばっていた心に、神に主権をとっていただき生きる。なぜなら、主が、私たちに再創造をなしてくださったからだ。心の底から、「私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊」と、感謝と賛美をささげながら主の門を通って主の大庭に入ることができる(4節)。これは、終わりの日に再び来られるキリストに引き上げられる者の姿だ(黙22:12,14)。

一年をこの礼拝をもって締めくくるこのとき、私たちも「感謝の賛歌」を主に献げるにふさわしいかどうかを、主の前で問うていただきたい。