礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2024.12.01

主の御言葉の真実

ルカ1:5-25

アドベントはクリスマスを待ち望む時だ。その語には“到来”の意味があり、イエスの受肉降誕を迎える心の準備は、再臨の準備の時でもある。静かにクリスマスを待ち望みたい。

キリストの降誕に先立って、バプテスマのヨハネの誕生があった。イエスは処女からお生まれになったが、ヨハネは不妊の女から生まれた。父ザカリヤ、母エリサベツは、神の前に正しい人だったが(6節)、子どもがなかった(7節)。当時の事だから、彼らは肩身の狭い思いをしたに違いない。

祭司ザカリヤは、その年、聖所の務めに当たった(8,9節)。毎朝、民を代表して祈りの香をたくのだ。その彼に御使いガブリエルが現れ、願いが聞かれたと告げた(13節)。彼の祈りは、子どもが与えられるようにということではないだろう。それは、祭司の公の祈りではあり得ないからだ。民を代表しての公的な祈りは、救い主待望の祈りだったはずだ。

メシヤ来臨は、かねてからの預言であり、イスラエルの民の切望だった。彼らは、ローマに支配されることによる屈辱感と貧困からの解放を求めていた。ザカリヤは、その救い主の先駆者が我が身から…と聞かされたのだ。彼はこれが信じられなかったのだ。公的には救い主を待望しながら、我が身に直接関係するとなると信じられない。信仰がそこまで働かなかったのだ。

信仰は意識的に、生活の場で働かせるものだ。何を信じるのか。御言葉の真実を信じるのだ。主の言葉は必ず成る(20節、イザ55:11)。これを信じるのが信仰だ。

ザカリヤは主に裁かれ、口が利けなくなった。民のために神に仕えるプロの祭司の不信の罪は重い。ただ、その裁きは、ヨハネが誕生するまでのことだった。ヨハネと命名したとき、口が利けるようになった(63,64節)。主は憐れみ深いお方であり、真実なお方だ(エレ31:3)。

キリストは私たちのために十字架にかかられた。神の私たちに対する愛は、独り子を賜うほどだった(ヨハ3:16)。主は十字架の上で私たちの救いを完成された。私たちを完全にご自身のものとするためだ。まず救いの恵みをいただきたい。罪を認め、神の前に悔い改め、十字架を信じて、罪が赦されるという救いをいただきたい。ここがはっきりしないと先に進むことができない。

さらに、罪が赦され神に義と認められた魂は、御言葉の光に従っていけば、自らの内になお神に喜ばれない一物(いちもつ)があることに気がつく。自己中心、わがまま、傲慢、妬み深さ、愛の無さ、何が何でも自分の考えを押し通したいという頑なさ、など、あれでもクリスチャンかと言われるような情けない己の姿に愕然(がくぜん)とする。

この自分の内側の問題をそのままにしては、真の満足、喜び、平安はない。いい加減にけりをつけなければならない。けりをつけるところは十字架以外にない。信仰をもって肉をキリストの十字架に付け、己に死ぬなら(ガラ5:24)、信仰によってキリストが内に住まわれるという恵みに啓かれる(ガラ2:19,20)。そこから、キリストのようにいつも御心にのみ従う歩みが始まる。

私たちがこのキリスト内住の信仰で生きる者になり、全く新しく造り変えられた者になることは、神の約束だ。

主の言葉は変わらない。御言葉に立った信仰は強い。サタンは様々な現状を見せて失望させようとしてくる。しかし、こちらが信仰に立っていれば大丈夫だ。

信じない者にならないで、信じる者になろう。アドベントは出発、前進の時だ。主の御言葉の真実に信頼して、前進しよう。またアドべントは再臨待望の時でもある。私たちがキリストの花嫁として御前に立つことができるという希望を持って進んで行こう。