礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2024.11.24

あなたの心を見守れ

箴言4:20-27

箴言は、神の言葉の真理を知恵として生きるようにというメッセージを伝える書巻だ(1:1-7)。読む者が、神の言葉を揺るがない指針、基盤、拠り所して適用させるとき、自分の生活の只中に神の祝福を受け取り、豊かな実を結ぶ生涯を送ることができる。私たちも、箴言を深く味わい、神の言葉の真理を知恵としたい。

箴言の著者は、神の言葉が与える知恵を、泉に例えた。深く掘り、管理し、守り、その恩恵を受けて生きていくからだ。「いのちの泉」という表現のほとんどが、箴言に使われている(10:11, 13:14等)。今日の箇所にも「いのちの泉」が出てくる(23節)。ただし、他の箇所と違って、原文では「泉」にあたる単語は使われていない。”中から外に出てくるもの”という意味の言葉が意訳されているのだ。これこそ、あなたの中から何が出ているのかという、神からの鋭い光だ。続く24節には、「曲がったことを言う口」、「ゆがんだことを言う唇」とあるが、これらの原因は心だ(マタ15:18)。25節の「目が前方を見つめ」ているかどうかも、「まぶたがまっすぐ前を向くように」なっているかどうかも、その心で決まる。そうした心は歩みに現れる(26節)。心を向けるという言葉には、平らに整えるという意味がある。平らな道筋、堅く定まった歩み、つまり、右にも左にもそれない歩みができるのは、悪を遠ざけ、神の前を真実に、正しい心を持つ者だけだ(27節)。私たちの心はどうか。どのような歩みをしているか。

21,22節に目を向けたい。ここに3つの動詞が出てくる。まず、見出す(22節)だ。先に述べた通り、神の言葉が与える知恵は、泉のように掘らなくてはいけない。そのためには、掘るべきところを見出す必要がある。神は、私たちに見出されてくださるお方だ。実際には、神の方が私たちを見出してくださっていた。私たちがキリストに出会い、救いへと導かれたのは、神の憐れみと真実のゆえだった。キリストは、罪のために滅びゆく私たちを救うために、十字架にかかって死に、死からよみがえられた。キリストを信じる者は、罪の赦しをいただき、滅びから永遠のいのちへと移される(ロマ6:23)。「全身の癒し」(22節)は、この救いが私たち一人一人の人生を平安と希望に満たすことを表している。

二つ目は、見失わない(21節)だ。泉は、せっかく掘り当てても、管理を怠ると失う。水源を守り、失わないようにする必要がある。キリストの救いをいただいた者は、その救いを忘れず、救われた者としての歩みを始める。世の力は強く、誘惑も来て、私たちはともすると救いを失いそうになるかもしれない。けれども、明確な救いをいただいた者は必ず、自分が体験した救い主キリストを自らの土台に据え、救いを見失わずに生きていくことができる。

三つ目は、保つだ(21節)。この言葉には、見張るという意味もある。何かを保つためには、それを放っておくのではなく、見張っておかなくてはならないということだ。この場合、「自分の心のただ中に保て」とある。心の中心にあるものを見張るということだ。明確な救いをいただいて、救いを見失わずに生きる者は必ず、自己の真相に突き当たる。救われたと言いながら、またしても罪の中に舞い戻ろうとする心、クリスチャンだと言いながら、表の顔と裏の顔を使い分けている生活、神を愛していると言いながら、神以外のものに神以上の愛情を注ぎ、実のところ、神をそっちのけにしてでも己を愛している本性。こうした肉があることに気が付く。この肉から目を逸らさず、ごまかさず、神の前に出ていく。これが見張るということだ。私たちが砕かれて神の前に出ていくなら、神は私たちを導き、十字架を示してくださる。私たちが、示された十字架に肉をつけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19,20)。内に生きてくださるキリストを通して、「いのちの泉」が私たちの内から流れ出し、神を喜ばせ、人を潤していく生き方を送ることができる。

私たちも、「何を見張るよりも」(英語では“あらゆる努力をもって”)、私たちの心を見守りたい。自分がどのような心で、どのような歩みをしているかを見て、砕かれて神の前に出ていきたい。