天の国籍にふさわしい者
詩篇87:1-7
詩篇87篇には、異邦人の救いが触れられている。神は、イスラエルを、神の御心を行う存在として選ばれた。それは、彼らを先駆者として、世界中の全ての人々を救いへ至らせるためだった。しかし、彼らは正しく悟ることができず、自分たちだけが神の恵みを独占し、他の民にはその資格がなく、卑しい存在なのだという誤った認識に陥った。だが、私たちは、キリストの福音を通して、民族を問わず、全ての人が救いに与ることこそ、神の御心だと知ることができる。
「この都で生まれた」という句が3回繰り返されている。まず、4節に出てくる。これは、キリストの救いによって、滅びから救われ、新しく生まれた者のことだ(ヨハ3:3,14,15)。私たちは本来、罪のために滅びる存在だった。そのような私たちに、新しいいのちに生きる道、神の子として魂が生まれ変わる道が開かれた。キリストが神から遣わされて私たちのところに来られ、十字架にかかって死に、死を破ってよみがえられたことによって開かれた救いの道だ。3節にある通り、民族に関係なく、全ての人にこの救いの道は開かれている。自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じる者は誰でも、罪の赦しと滅びからの救いが与えられる。この救いに与った者は、かつていた死の門、サタンの支配の門から、「シオンの門」、神の御国の門へ移し替えられる(2節、詩9:13,14)。キリストという門を通る者は、天の国籍を付与され、都へ入ることができるのだ(ヨハ10,9a, 黙22:14)。
次に、6節の「この都で生まれた」を見たい。こちらは、初めの救いからさらに進み、キリストに内に生きていただく者のことだ。先の4節では「記憶しよう」となっていた。神に記憶していただけることは破格の恵みだが、こちらでは正式に住民として「登録される」のだ。救いの道を歩み始めた者は必ず、救われてもなお内に残る罪の性質に気が付く。救われたと言いながらも、なおも汚れを愛し慕っている。救われた者とは思えないような本性をいつもくすぶらせ、ちょっとしたことで爆発させる。果ては、救われなかったほうがよかったとさえ思う。こうした肉をかかえたままでは、せっかく天の国籍が付与されていても、それにふさわしくない者となる。イエスの譬え話の一つに、天の御国が王の披露宴に例えられているものがある(マタ22:1-14)。その最後に、婚礼の礼服を着ていない客が登場する。彼は、王からなぜ礼服を着ないのか聞かれても答えず、追い出されてしまう。この客は、救われた後、肉をそのままにして、滅びてしまう者の姿だ。天の国籍にふさわしくない者の末路だ。しかし、私たちが自分の汚れた姿を認め、神の前に出て肉を十字架につけて始末するなら、キリストが私の内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。私たちは、キリストを通して、天の国籍にふさわしい者となるのだ。
さらに、5節の「この都で生まれた」を見たい。先に見た2箇所とも「この者は」だったのに対し、「この者もあの者も」となっている。ここに教会の姿を見る。教会は、キリストの救いに与った者たちによって構成され、キリストを内にいただいた者たちによって高い霊性を保つ共同体だ。一人一人キリストと出会って新しく生まれ、天の国籍を付与された者たちが、共に集って神に感謝をささげるところであり、一人一人神の前で砕かれ、内住のキリストによって天の国籍にふさわしくされた者たちが、共に集って神の御心を尋ね求めるところだ。だから、神は教会を通して、「シオンを堅く建てられ」、教会を通してご自分のみわざを進ませてくださる(マタ16:18, エペ1:22,23)。
「この都で生まれた」と神が認めてくださる者は、「わたしの泉はみな あなたにあります」(7節)と告白することができる。救いを与えて新しく生まれさせ、さらに、内に生きてはたらいてくださるキリストは、「わたしの泉」となって、いつまでも枯れることのない「永遠のいのちへの水」を湧き出させてくださるのだ(ヨハ4:13,14)。
私たちは、天の国籍を付与されているか。また、それにふさわしい者となっているか。神の前に光を当てていただきたい。