礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2024.10.13

罪のゆるし

ルカ5:17-26

今日の箇所は、イエスがカペナウムの町で行われた、中風の人の癒しの記事だ。イエスの初期の伝道における出来事として、マタイ、マルコ、ルカの福音書に共通している。

まず、中風の人に与えられた罪の赦しに目を向けたい。マルコとルカだけが、家が人でいっぱいだったために中に入れず、運んできた人たちが屋上に上ったことを記す(18,19節, マル2:3,4)。屋上に上った彼らは、瓦をはがした。簡単に修復できるとはいえ、根気の要る作業だ。だが彼らは犠牲をいとわなかった。この姿に、先に救われた者たちの祈りを見る。熱心に、ときに時間をかけ、誰かのために祈るなら、神に必ず聞かれる(ヤコ5:15)。また、この瓦をはがす姿は、イエスのもとに来る人の心の中に重ねることができる。心に覆いかぶさる瓦がはがされ、穴が開けられたとき、人は真正面からイエスに出会うことができる。屋上に上ったのも、瓦をはがしたのも、イエスの前につり降ろしたのも、連れてきた人たちの信仰によることだった。しかし、その信仰は、中風の人自身の信仰にもなっていたはずだ。おそらく、身体は動かなくても、彼らの姿をじっと見ていたはずだからだ。最終的に彼自身が自分の信仰としてイエスを信じたので、イエスは「彼らの信仰を見て」(20節)、罪の赦しを宣言された。

キリストは私たちに罪の赦しを与えるために、神から遣わされ、人となられた。キリストが十字架にかかって死に、死を破ってよみがえられたのは、罪によって滅びる私たちを解放するためだった(23:34)。どんな罪を犯した者であっても、キリストのもとに来て、罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、その信仰によって罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる(使26:18)。

こうして、一人の人が罪から解放され、救われた。そのことを、その場にいた者全員が喜ぶべきだった。しかし、喜べない、いや、喜ぼうとしない人たちがいた。律法学者たちとパリサイ人たちだった。彼らが考えたのは、「神への冒涜」ということだった(21節)。しかし、これは彼らの心の鈍さであり、またイエスが神から遣わされた方であるとは認めたくないという頑なさだった。イエスは彼らの考えを見抜かれた(22節)。ご自分の霊で見抜かれたと、マルコは記す。そして、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために」と言われ、彼に起き上がるように命じられた(24節)。彼は、その言葉通り、起きて、立ち上がった。イエスはこの奇跡を、ご自分に反対する人々の鼻を明かすために行われたのではない。イエスが神のもとから遣わされた救い主であることを悟らせるためだ。

主は、私たちの心も見抜かれる。私たちの心の中には何があるか。救われてもなお、神を受け入れず、自分の思いを押し通し、ときには神を憎むことすらする心があることを、神は見抜いておられる。そして、そこに光を当てられる。だが、それは私たちに、自らの姿を悟らせるためであり、罪を赦す権威をもっておられるキリストによって解決することを悟らせるためだ。私たちが自らの汚れた姿を認め、砕かれて神の前に出て、自らの汚れを十字架につけて始末するなら、キリストが内に臨んでくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。罪を赦す権威をもったキリストが内に生きて働いてくださることによって、私たちは霊の足で立ち上がり、神に喜ばれる道を歩んでいくことができる。

中風の人は、自分が寝ていた床を担いで帰っていった(25節)。おそらく、彼は、一生その床を捨てなかっただろう。そして、度あるごとに見返し、また、人にも見せ、自分がかつてどのような状態だったかを忘れず、人々に証しし続けたことだろう。私たちも、自分の寝ていた床を担ぐべきだ。捨ててしまってはいけない。自分がかつて生きていた罪の生き方とそこからキリストによって救われたことを忘れてはいけない。いつも感謝し、救いを証しし続けていきたい(8:39)。

罪の赦しは、キリストの救いの土台だ。私たちは罪の赦しをいただいているだろうか。神の前で光を当てていただきたい。