礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2024.09.22

神の御心を知る者

創世記18:1-8、16-22

新約聖書のヘブル人への手紙にこのように書かれている。「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、知らずに御使いたちをもてなしました」(ヘブ13:2)。「ある人たち」の一人がアブラハムのこと、もう一人が彼の甥、ロトのことだ。ただし、善意や親切を薦める箇所ではない。

まず、今日の箇所に至るところを見たい。アブラハムは、神が示す地を目指して旅立った(12:1,4,5)。甥のロトも一緒だった。やがて、彼らは、同じ土地に留まることがむずかしくなった(13:5-7a)。アブラハムとロトは、別れて行動することにした(13:8,9)。ロトは、よく潤っている土地を選んだ(13:10,11)。アブラハムはカナンの地に住み、ロトはソドムの町に住んだ(13:12)。ロトが住んだソドムの町は汚れており、そこに住む人々は邪悪だった(13:13)が、彼はそこに住み続けた。一方のアブラハムには、神の祝福が約束され(13:14-17)、彼はマムレの樫の木のそばに祭壇を築き、そこに留まった(13:18)。神はさらに祝福の約束を与え、彼の信仰の原点となった(15:1,5,6)。子孫の繁栄が神の約束した祝福だった。だが、彼には子どもがいなかった。ここで彼は神からの取り扱いを受ける。妻サラとの間に子どもが生まれるのを待つ代わりに、女奴隷に子どもをもうけたのだ(16:15,16)。彼は、御心に聞くよりも、肉の考えに従ったのだ。神は13年の沈黙を与えた。これによって彼は砕かれ、御心に従う、全き信仰の人となっていた(17:1)。神は御使いを遣わし、アブラハムには子どもの誕生を予告し、ロトが住むソドムの町は滅ぼされることになる。

今日の箇所を、ロトと比較しながら見たい。最初、アブラハムは天幕の入り口に、ロトは門のところに座っていた(1節, 19:1a)。天幕の入り口は、神の前に出る場所だ。門のところは、人の前に出る場所だ。それぞれがどう生きていたかを表している。これが御使いたちを見たときの態度の違いにつながる。アブラハムは信仰の目を上げて彼らを見つけ、走って行った(2節)。一方のロトは、立ち上がって彼らを出迎えただけだった(19:1b)。どちらもひれ伏してはいるが、魂の状態が雲泥の差だ。立ち寄るよう勧める言葉への彼らの返事も、アブラハムに対しては承諾しているが(5節c)、ロトに対してはそうではなかった(19:2)。前者の場合、子どもが生まれることを告げるという目的があり、後者の場合、町を滅ぼすという目的があった。しかし、ロトは御心を悟ることができず、肉を押し通して、しきりに勧めた。神は彼を憐れまれ、御使いたちが彼の家に入るようにされた(19:3a)。御使いたちが食べる間、立って給仕したアブラハムは、砕かれ、御心が示されるのを待ち望む態度だ(8節)。ロトは、ごちそうを振る舞ってはいるが、神のさばきが迫っていることに気がつかない(19:3b)。信仰を表す種なしパンも、彼の上辺だけの態度の象徴だ。

これらの違いは、私たちが神の御心に対してどうあるべきかを教えている。私たちは、神の御心から遠く離れ、罪のために滅びる存在だった。しかし、キリストが神から遣わされ、十字架と復活による救いを成し遂げてくださり、神の御心が示された(ヨハ6:38)。私たちは、罪を悔い改め、十字架と復活を信じ、滅びからの救いが与えられる。この救いを土台とするとき、私たちは神の御心を知る生き方を始めることができる。しかし、救われてもなお残る肉をそのままにしていると、私たちは神の御心よりも自分の思いを優先させ、御心に従うよりも自分の欲望に従う生き方を続けてしまう。ロトの姿が表しているように、神が御心を示しておられても、悟ることができない。私たちが砕かれて神の前に出ていき、十字架に肉をつけて始末するとき、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。アブラハムが、子どものことで取り扱われ、失敗し、砕かれた後、神の御心に生きる者となったように、私たちも、取り扱われ、砕かれ、キリストに内に生きていただく者となる。アブラハムとロトの違いは、肉のままで生きる者と、御心に生きる者との違いなのだ。

ソドムを滅ぼすご計画を、神はアブラハムに打ち明けられた(17節)。キリストに内に生きていただく者を、神は友と呼んでくださり、ご自分の御心を明らかにしてくださる(ヨハ15:15)。冒頭で掲げたヘブル書も実は、御心を知り、御心に生きる者の姿だ(ヘブ13:1-6)。私たちも、神の御心を知る者となりたい。