あなたの塔
創世記11:1-9
バベルの塔は、大変有名な聖書のエピソードの一つだろう。本日は、そこに込められた神のメッセージを受け取りたい。
記事を読むと、バベルの塔の建設着手に至った背景には、大きな技術革新があったことがわかる(3節)。これは、一般的には賞賛されることなのかもしれない。しかし、そこに人の罪の心を見ることができる。「れんが」は”白くする”、「瀝青」は”煮え立たせる”を語源とする。人の心の中に、傲慢さが煮え立ち、それでいて表面上は、純粋で正当のように取り繕う姿だ。続く4節で、そうした傲慢と欺瞞が外に表れている。このような人間の姿を、神が見逃すはずがなかった(6,7節)。人々は全地に散らされ、神の救いの計画が一人の人、アブラハムを通して始まっていく。
私たちの中にもバベルの塔がないか。ある人にとっては、心のよりどころ、心安らぐ居場所、人より秀でていると自負しているところ、またある人にとっては、輝かしい経歴、自他認める長所、社会的に賞賛される働き、またある人にとっては、自分らしい生き方、自分の考え、主義主張、自分の感覚や印象、自分の感情や気分…、挙げ出せばキリがないが、神を抜きにして自分の中に高くそそり立っている塔だ。それらはもしかすると、“よいでないか”、”価値がある”、“持っていて当然だ”と思えるものかもしれない。しかし、神がご覧になったときに、そのままでよいと言われるだろうか。
神は、私たちのバベルの塔を崩される。そのままでは神の栄光にならない、救いが始まらない、救いが深まらないのであれば、神は、時と事を備えて、その塔を崩される。しかし、それは私たちを潰し、破滅させるためではない。私たちの内に、キリストという新しい塔を建ててくださるためだ。キリストは、まだ私たちが罪の中にさまよっていたときに、十字架と復活による救いを成し遂げてくださった(ロマ5:6, 8, 4:25)。私たちは、自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じることで、この救いを与えていただくことができる。私たちの内にそびえたっていた罪の塔は崩され、キリストの救いを土台とした新しい塔の建築が始まるのだ(1コリ3:10,11, コロ2:7)。明確に救いをいただいた者は、キリストの土台をもとにして、救いを深め、塔を建て上げていくことができる。
しかし、建て上げれば上げるほど、崩されなければならないバベルの塔が、実はまだ残っていることに気づく。内側の汚れた罪の性質のことだ。これが残って、のさばっている限り、塔は完成しない。イエスの語られた塔を建てる人の譬え話を連想する(ルカ14:28,30)。塔を完成させるためには、十分な金があるかを計算するはずだとある。これは、自分がどれほどの者であるのか、その実情を省みることを指していると読むことができる。自分の内側がどれほど汚れており、救われたと言いながらも、平気で神を裏切り、罪を犯し、傲慢と欺瞞に走る。このバベルの塔を残したままでは、私たちの最後はやはり滅びだ。しかし、神の土台は据えられている(2テモ2:19)。私たちが自らの姿を認め、汚れから離れ、神のもとに出るならば、神が導いてくださる(2コリ6:14-18)。私たちが自分の汚れを十字架につけて始末するとき、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19,20)。私たちは、内に生きてくださるキリストによって、キリストの塔を完成させていただき、新しく造られた、神に喜ばれる者として生きることができる(2コリ5:17, ロマ12:1,2)。
イザヤ書54:12には、完成された塔の様子が描かれている。“太陽”という意味の言葉が使われている「塔」は、まさに内におられるキリストだ。神に喜んでいただく生き方を送る者の姿だ。
あなたの塔はどうなっているか。バベルの塔が残っていないか。せっせとれんがを積んで、瀝青を注いでいないか。それらを崩していただき、罪から離れ、キリストの塔を建て上げていただきたい。