戸をたたくキリスト
ヨハネ黙示録3:14-22
ヨハネの黙示録の2-3章には、小アジアの7つの都市、エペソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルデス、フィラデルフィア、そしてラオディキアに建てられた教会に宛てた内容が収められている。だが、これらは実際の7つの教会に宛てられただけでなく、全ての教会、ひいては今の私たちに宛てられた神のメッセージでもある。その中から、今日はラオディキアに宛てられた箇所が開かれている。
この箇所の中心は、20節だ。戸をたたくキリストの姿は、私たちの心に迫る。この箇所を通して、キリストの救いに導かれたという証しもよく聞く。しかし、この箇所は、ノンクリスチャンにのみ向けられているのはないことが、前後をよく読むとわかる。
今日の箇所は、キリストのご性質によって始まる。「アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方」(14節)は、万物に先立って神とともにおられたキリスト(コロ1:16)が、信仰によって祈る私たちの祈りに応えて(2コリ1:20)、真実をもって働いてくださる(2テモ2:13, 黙19:11)ことを表している。
この真実なキリストがラオディキアの教会に指摘するのは、熱心さの欠如だった(15,16節)。実際にラオディキアの町には、温泉から湯を引くための水道橋が作られていた。しかし、距離があったために、湯が冷め、生ぬるくなっていた。彼らの態度は、ちょうどその冷めた湯のように、生ぬるいと言われているのだ。おそらくこの指摘通り、教会でささげられる礼拝は形骸化し、教会員たちの信仰生活は表面的で、主に対しても、また互いにも、冷ややかさと無関心がはびこっていたのだろう。
熱心さの欠如の原因は、明確だ。自分の姿が見えていないということだ(17節)。自分は満ち足りている、大丈夫だというところにあぐらをかき、実は、何も見えていないことに気づいていない姿だ。実際には、ラオディキアは、経済の中心地であり、貨幣の鋳造、毛織物業、目の軟膏や化粧品の開発で発展していた。おそらく、教会の中にも、世の富の誘惑は入り込み、クリスチャンたちの心をキリストから引き離していたのだろう。彼らは、霊的な意味で、盲目であり、裸だった(2ペテ1:5-9, 黙16:15)。
彼らに必要なのは、「火で精錬された金」、「白い衣」、「目薬」を買うことだった(18節)。「目薬」は、自分の姿をしっかりと見ること(ヨハ9:39-41)、「白い衣」は、キリストの十字架と復活の救いを明確にいただくこと(黙7:13,14)、「火で精錬された金」は、聖い者としてキリストを信じる信仰によって生きることを表す。主は、彼らが真の悔い改めへと至るために、戒め、訓練してくださる(19節, ヘブ12:5-11)。
今日の光を通して、私たちも探られたい。私たちの主に対する態度は生ぬるくなっていないだろうか。私たちも、自分の姿が見えず、実態に気づかず、何も問題ないというところに居座っていないだろうか。キリストは、私たちを罪の滅びから救うために、十字架にかかって死に、よみがえられた(ロマ4:25)。私たちは、罪を悔い改め、キリストを信じる信仰によって救いをいただく。さらに、救われてもなお内に残る、罪を犯す性質、世の富に心惹かれる肉、上辺だけを取り繕って生きる本性を、十字架につけて始末するとき、内にキリストが臨んでくださる(ガラ5:24, 2:19,20)。内に生きて働いてくださるキリストを通して、私たちは熱く、主に喜ばれる者として、信仰に生きることができる(ガラ2:20b)。終わりの日に、勝利の座にキリストと共に就くことができるのは、そのような者だ(21節)。
キリストは、私たちの心の戸をたたいておられる(20節)。私たちが自分の姿に気づくように、主に立ち返るように、霊の目が開かれるようにと迫っておられる。戸を開いて、キリストに中に入っていただくなら、キリストが私たちを養い、導き、前へと進ませてくださる。