かすかな細い御声
1列王19:1-18
今日の箇所は、預言者エリヤが神から取り扱われる場面だ。先の記事において、彼は、すばらしい神のみわざによって、バアルの預言者たちに大勝利を収め、王と民の前で真の神を大胆に示した。
ところが、ここでは彼の勇敢な姿は微塵もない。王妃の脅迫に恐れ、逃げ、死を願うまでしている(1-4節)。だが、彼にとって必要な、神の時だった。私たちにも、落ち込み、頭を抱えるときが必要だ。神はそのようなときを備え、大切なことを悟らせてくださる。
嘆くエリヤに対して、神がまずお与えになったのは、十分な休息と食べ物と飲み物だった(5-7節)。主は私たちの弱さを知っておられる。休息がなければ疲れ、肉の糧がなければ力が出ない。主は、ご自分が愛する者に必要なものを与え、私たちの身体を整えてくださる(詩127:2)。それは、最も必要な霊の糧、魂の養いを受けさせるために他ならない。身体に元気を与えていただいたエリヤは、神からの取り扱いの場となるホレブ山へと導かれた(8節)。
「ここで何をしているのか」(9節)。これが、神からの取り扱いの光だった。罪を犯した後のアダムとエバに対する神の問いかけ、「あなたはどこにいるのか」(創3:9)を彷彿とさせる。全てを知っておられる神が、こうお尋ねになる目的はただ一つ、私たちが自分の魂の状態を自らの口で神に申し上げることだ。そのためには私たちの側が、傲慢や頑なさを捨て、砕かれ、自分の魂が今どんな状態なのかを見なくてはいけない。
エリヤは自分の窮状を神に訴えた(10節)。もしかしたら彼は、神が慰めの言葉をかけ、不思議な力を授けて勇気づけてくださると期待したかもしれない。しかし、神からの応えは「主の前に立て」だった(11節)。彼は、はっとしたことだろう。自分の熱心さ、王や民の非道さや頑なさ、自分の命の危うさにばかり目が行き、神の前に立つことが疎かになっていた。神の前に立った彼に、神は様々な激しい事象を表された。しかし、どんな事象の中にも神はおられなかった(11節,12節)。最後に、「かすかな細い声があった」(12節)。このかすかな細い御声を聞くことのできる者でなければ、神の御心は悟れない。
神からの再度の問い、「ここで何をしているのか」(13節)に対して、彼も同じ言葉でお応えした(14節)。一字一句、先と同じ言葉だが、砕かれ、虚しくなり、神に明け渡した姿が見える。神は御心を示された。その中で最も大切なのは、残りの民、レムナントの約束だ(18節)。どんなに悪がはびこっても、ご自分に従う聖なる人々を神ご自身が残しておかれる、という約束だ(イザ10:20,21)。
神は、私たちにもご自分の御心を明らかにしたいと願っておられる。しかし、そのためには私たちが、かすかな細い御声を聞くことのできる者でなければならない。自分の考え、人の思想、世の常識、まして、罪の誘惑に心が傾いている状態であっては、御声を聞くことはできない。「ここで何をしているのか」という問いかけは、私たちにも投げかけられている。私たちの魂の状態に光が当てられているのだ。私たちはどう応えるか。まず、”私には罪の解決が必要です”と応えたい。私たちは、罪のために神から離れ、滅びゆく存在だ。そんな私たちが救われるために、御子キリストが十字架にかかって死に、死を破ってよみがえられた。私たちが、自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる(エペ2:4,5)。だが、それで終わりではない。救われてもなお、神に喜ばれない罪の性質が残っているからだ。だから、「ここで何をしているのか」という光は、救われた後の私たちにも届いている。やわらかい砕かれた心で、”私には肉の始末が必要です”と応えて、神の前に出ていきたい。自分の肉を十字架につけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19,20)。私たちは、内にいますキリストを通して、神のかすかな細い御声をいつも聞き、神の御心にいつも従うことができる。エリヤに与えられた残りの民の約束は、実は、内住のキリストで生きる私たちによって果たされる。
私たちも、かすかな細い御声を聞くことのできる者になりたい。闇がますます濃くなる最終末の今、神の御心に開かれ、神に従って生きる者となりたい(ロマ13:12)。