礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2024.07.14

祈りの香

ヨハネの黙示録5:1-14

ヨハネの黙示録は、イエスの弟子の一人ヨハネが記した。彼は、ローマによるクリスチャン迫害の最中で捕えられ、パトモス島に流された。そこで、神からの啓示を受け、この書簡を記した(1:9,10)。

彼は、「ここに上れ」という天からの声と共に、御霊に捕らえられ、そこから不思議な啓示が始まっていく(4:1,2)。まず御座についておられる方が見せられ(4:3)、その周りに座している24人の長老たちと四つの生き物が見せられた(4:4,6)。御座についておられる方は神、24人の長老たちは教会、四つの生き物は御使いを表していると言われる。四つの生き物が高らかに神を賛美するとき、長老たちは御座についておられる方の前にひれ伏し、礼拝をささげた(4:8-11)。この啓示が示す通り、教会は神の御前に立てられた存在である。教会の中心は、御使いと共に賛美することと、礼拝をささげることだ。

この礼拝の啓示のすぐ後に、今日の箇所が続いている。文字で満ち、封じられている巻物が示される(1節)。この封印を解くことができるのはただ一人、キリストだ(5節)。文字で満ちた巻物とは聖書だ。旧約の時代から聖書は記され、受け継がれてきたが、そこに書かれていることの真の意味は封印されたままだった。その封印が解かれるのは、キリストの現れを待つしかなかったのだ。それから、「屠られた姿の子羊」が、御座と四つの生き物と長老たちの真ん中に立ち、巻物を受け取る(6,7節)。この子羊こそ、十字架にかかりサタンに勝利したキリストだ。

私たちは罪のために神から遠く離れ、サタンの支配下にあり、滅びなくてはならない存在だった。私たちが滅びるのを惜しんでくださった神は、ひとり子キリストを私たちの元に遣わしてくださった。「世の罪を取り除く神の子羊」とするためだ(ヨハ1:29)。キリストが十字架にかかって死に、死を破ってよみがえられたことによって、私たちに救いの道が開かれた。私たちがサタンの支配下から神のもとへ、滅びから永遠の命へと移し替えられるための道だ(使26:18, ヨハ3:16)。私たちが自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、罪は赦され、この救いの道を歩み始めることができる。

こうして救いの道を歩み始めた者は必ず、救われてもなお内に残る罪の性質に気が付く。神よりも己の欲望や願望を優先させ、表向きはクリスチャンらしく装いながらも、その裏では神に喜ばれないものを潜ませ、神を愛すると言いながらも己を愛し、世と世にあるものを慕っている。そのような汚れたままでは、やはり私たちは滅びてしまう。私たちが自らの姿をそのままにせず、神の前に出て肉を十字架につけて始末するなら、内にキリストが臨み、内に生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19,20)。私たちは、内に生きてくださるキリストを通して、勝利の歩みを送ることができる(1ヨハ4:4, 5:4,5)。キリストが真ん中に立ってくださるからだ。クリスチャンの真ん中、教会の真ん中には、キリストが立っていなければならない。

子羊が巻物を受け取るとき、四つの生き物と長老たちが手に持つのは、香、つまり聖徒たちの祈りに満ちた金の鉢である(8節)。これは、聖所でささげられる香の定めから来ている(出30:1-8)。香を作るための材料と方法も細かく定められている(出30:34-38)。香の材料は4種、ナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香、純粋な乳香だ。これらはそれぞれ、自発のささげ物、砕かれた心、犠牲、復活といった意味がある。私たちがささげる祈りも、自らの意志と信仰を表し、砕かれた謙虚な心でささげられなければならない。また、キリストが十字架と復活によって救いが成し遂げられたことをいつも感謝する心でなければならない。これが、神の御前に立ち上る祈りの香だ(8:3,4)。

私たちも祈りの香をささげたい。神の御前に真実な祈りをささげたい(ヤコ5:16b)。