礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2024.06.23

私は主に仕える

ヨシュア24:1-28

旧約聖書は、ただの歴史書ではない。信仰の表明書だ。様々な時代の人々が、それぞれの出来事や場面において、信仰を働かせ生きたのかを伝えている。本日開かれている箇所もその一つだ。

ヨシュアは、モーセの後継者として立てられ、イスラエルの民を導く使命を委ねられた。後継者としてのリーダーシップを受け継いだだけではない。モーセが神と共に歩み、神に従い通した姿勢を引き継ぎ(1:5)、その信仰も引き継いだ(1:6)。彼は、信仰に固く立ち、驚くべき神の御わざによって、濁流が溢れかえっていたヨルダン川を民全員と共に渡った(3章)。そして、難攻不落の町エリコを攻め取り(6章)、カナンの民を次々に打ち破った。カナンの地は、彼が率いるイスラエルの民によって征服された(11:23)。民は部族ごとに、割り当てられた地に住み始めた。月日が流れ、年老いたヨシュアは、民を集め、遺言を残した。23,24章にはその言葉が記されている。彼は、カナンの地を最後まで占領するように、モーセの律法に徹底して従うように、異邦の神にかしずくことなく、ただ神にすがり、神を愛するようにと、民と長老たちを諭した(23章)。それから、彼は、念を押すかのように、改めて民全員をシェケムに集めた(1節)。彼はまず、アブラハムに始まり、イスラエルの歴史を紐解いて、神がこれまでどれほど真実を尽くして民を導いて、今ここに至るかを語った。そして、この真の神だけを信じ、従うようにと命じた。彼ははっきりと宣言した、「私と私の家は主に仕える」と(15節)。これは、その人生の締めくくりを迎えた彼の揺るがない信仰表明だった。民も、神に仕えますと答え、その言葉の証しとして、石が立てられた(26,27節)。

なぜ、彼はシェケムに民を集めたのか。神の前に立たせるためだ(1節)。そこには祭壇があり、礼拝をささげる聖所が設けられていた。また、その地は、彼も振り返った歴代の父祖たちにとって、信仰の要所となった場所だった。神の言葉に従って父の家を出立したアブラハムが、「この地を与える」と神から約束をいただいたのはこの地だった(創12:6,7)。言うなれば、信仰のスタート地点だ。また、ヤコブが祭壇を築き(創33:18-20)、伝説では井戸を掘ったとされるのもこの地だが、彼はここで挫折を味わい(創34)、信仰が取り扱われる場所となった。彼は、神の言葉によって立ち上がり、汚れたものを処分し、再出発した(創35:4)。このように、父祖たちの信仰にとって、重要な場所がシェケムだったのだ。おそらくヨシュアは、それを知った上で、ここで自らの信仰を表明し、証しの石を立てたのだ。

さらに、時を隔てて新約聖書の時代、シェケム(スカルと呼ばれていたが)のヤコブの井戸の傍らで、一人の女性の信仰を芽生えさせ、取り扱い、救いへと導かれた(ヨハ4:5,6)。イエスは、御霊と真理によって礼拝する者の歩みという切り口で彼女を取り扱われた(ヨハ4:23,24)。”私は主に仕える”と宣言したヨシュアの信仰と、立てられた証しの石の成就を、ここに見ることができる。

神は、キリストを通して、私たちの信仰を始め、取り扱い、完成へと導いてくださる(ヘブ12:2,10)。キリストの十字架と復活によって罪の赦しをいただき、滅びから救っていただいた者は、信仰のスタートを切る。そして必ず、救われてもなお内に残る汚れにぶつかる。神が取り扱いの光を当ててくださるのだ。私たちがそれを避けたり、ごまかしたりせず、神の前で十字架につけて始末するなら、内にキリストが臨んでくださる(ガラ5:24, 2:19,20)。私たちは、内に生きてくださるキリストによって、信仰に生きる者となることができる。御霊と真理によって礼拝する者として証しの石を立て、どこまでも主に仕え、主の御心の通りに生きることができる(黙7:14,15)。

私たちも、神の前で”私は主に仕える”と信仰を表明したい。信仰による歩みを全うし、神の前に証しの石を立てたい。