残されている神の安息
ヘブル4:1-13
本書は、ローマ帝国による迫害下で、最初は戦いに耐えたが、やがて疲れ、信仰を捨て、ユダヤ教に逆戻りしようとするクリスチャンを励まし、信仰に踏み留まらせるために書かれた。
1.神の安息がある(1節)。神が備え、私たちを入らせようとしてくださる聖潔(きよめ)の恵みがある。イスラエルの民は、小羊の血によって出エジプトした。私たちも罪の奴隷だったが、悔い改めと十字架を信じる信仰によって罪の赦しと義認が与えられた。
イスラエルの民は、カナンの地、乳と蜜の流れる地を目指したが、贖われた恵みを忘れてエジプトを懐かしんだ。しかし主は忍耐し、マナを降らせ、岩から清水を湧き出させられた。このように恵みを忘れて主につぶやく情け無い民を、主は導かれた。
私たちもすぐに不信仰になり、不平を言う。しかし、主は私たちを忍耐強く導き、カナンの地、聖霊に満たされたクリスチャン生涯へと導いてくださる。勝ったり負けたりの荒野の生き方ではなく、いつも勝利する生涯だ。そのような神の安息が私たちのために備えられているのだ。
2.神の安息に入り得る約束がある。神の安息に入ることは約束であり、それはまだ存続している。主は私たちの内なる汚れをご自身の血で全く潔めてくださる(1ヨハ1:7)。自我を十字架につけるなら、キリストが内に住み給うという信仰で生きる者になる。必要なのは謙遜と渇きと信仰だ。
(1)自己の真相を認める謙虚さ。自分という存在がどれほど汚れているかは、低い心で御言葉の前に出て、その鋭い光に照らされれば分かってくる(12節)。徹底的に自己の真相を見せつけられ、こんな自分は嫌だと思うのだ(イザ6:5、ロマ7:24)。(2)潔められたいと願う渇き。自分の姿が分かったら、潔められたいと願う。聖潔は魂の最深部からの要求であり、主ご自身の願いだ。(3)イエスが必ず潔めてくださると信じる信仰。イスラエルをカナンに導き入れたのは、モーセではなくヨシュアだったこと(ヨシ3章)は象徴的だ。つまり、私たちが潔くされるのは、律法の行いによらず、イエスを信じる信仰によるということだ。キリストの十字架の事実は、信仰によって自分に結び付けられねばならない(2節)。真実な主を信じるのだ(マル9:23、10:27)。
3.神の約束に入り損なう危険がある。イスラエルの民は、不信仰のために約束の地に入れなかった(11節)。御声に従わなかったからだ。私たちもその危険がある。与えられている約束に対して、すぐに信じ従おう(7節)。私たちは神の安息に入れられるために贖われた。いつまでも荒野の生活に甘んじ、不勝利の生活を続けてはならない。主は、恵もうとして私たちを待っておられる。
残された神の安息に、信仰をもって入り、聖霊に導かれるクリスチャン生涯を始めさせていただこう。主の血で贖われた神の民のための約束を、確実に自分のものにしよう。不信仰のために入り損なうことのないようにしたい。
そのために、神の子イエスという大祭司がおられる(14節)。このお方によって大胆に恵みの御座に近づくことができる。約束を果してくださる主を信じて従っていこう。