私たちを見なさい
使徒3:1-10
先週はペンテコステだった。五旬節の日の朝、弟子たちが待ち望んでいるところに、聖霊が降り、彼らは変えられた(2:1-4)。集まってきた人たちに向かって、ペテロは罪を指摘し、悔い改めに導いた(2:36-38)。この日、三千人ほどの人々が悔い改め、史上初のクリスチャンの群れ、教会の原型が誕生した(2:41,42)。その後のペテロとヨハネによる癒しの奇跡の記事が、今日の箇所だ。
今日の箇所の中に、目に関する表現が繰り返されている。まず、足の不自由な人がペテロとヨハネを見るところから始まる(3節)。この見るという言葉は、目に入るという意味と同時に、認知する、気づくというニュアンスもある。私たちも、神の存在を知り、キリストの福音に触れ、自分が罪のために滅びる存在だと気づく必要がある。
次に、ペテロとヨハネが彼に視線を注ぐ(4節)。こちらは、注意を向ける、目的を伴って見るというニュアンスがある。また、じっと見つめるという継続性も含んでいる。神は、私たちのことをじっと見つめてくださっている。私たちがご自分のもとに救いを求めて来るのをじっと見つめ、待っていてくださっている。
ペテロとヨハネが彼に言った、「私たちを見なさい」(4節)という言葉はどうだろうか。こちらは、意志を伴った視線を表す。なんとなく見えている、視界に入っているというのではなく、自分の意志を働かせ、しっかりと見るということだ。漠然と、神がおられると思っているという程度ではない。意志を働かせ、神を求めるのだ。これが信仰につながり、神の前の歩みの土台となる。
ペテロとヨハネの言葉に対して、彼は期待をもって見た(5節)。ぶれない注意を向けるという意味があり、しっかりと掴まえる、そこにとどまるというニュアンスもある言葉だ。期待は、信仰の芽生えだ。この芽生えを、神は人の心に起こしたいと願っておられる。そのためには、私たち自身がぶれず、神への期待にとどまる必要がある。神は芽生えた信仰に応えてくださり、神のみわざへと導いてくださる。
こうして足が癒やされた男の人の姿を、人々は見た(9節)。これは、最初に彼がペテロとヨハネを見たのと同じ言葉であり、ここからまた新たなみわざが始まっていくことを示唆している。キリストによって変えられた人の姿は、それを見る周囲の人々に影響を与える。
今日の箇所が指し示す通り、私たちも、まず自分の罪の姿を認め、滅びゆく存在だと知りたい(マタ6:22,23)。神は私たちに憐れみの目を注ぎ続け、私たちがキリストを見上げることを待っておられる。キリストは、十字架と復活によって、神の救いの道を完成された。自分の罪を悔い改め、キリストの十字架を信仰の目で見上げる者は必ず、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる(民21:8,9)。
さらに救われた後の内側に残る汚れにも、私たちは目を向けたい(ヨハ9:39-41)。神は、私たちの心を見続け、私たちが打ち砕かれて、ご自分の前に出て来るのを待っておられる(2歴16:9a, ヘブ4:12,13)。私たちが意志と信仰をもってキリストを見上げ、自らの肉を十字架につけて始末するなら、キリストが私の内に臨み、私の内に生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。私たちは、私の内におられるキリストによって心の目が開かれ、神の御心を見分ける者となる(エペ1:17-19, ロマ12:2, ヘブ12:2a)。私たちは、内におられるキリストを通して、キリストを現す歩みを送ることができる。周囲の人々はそんな私たちの姿を見て、キリストの福音に触れることになる(ルカ18:41-43)。
「私たちを見なさい」と、今度は私たちがキリストを証しする者となることを神は願っておられる。たとえ、何も言えなかったとしても、私たちがキリストによって変えられ、内なるキリストによって歩んでいるなら、その生き方が証しになる。まずは私たち自身が、神に目を注ぎ、神の前に出ていきたい。