わたしの霊を注ぐ
ヨエル2:25-32
本日はペンテコステだ。2000年前に、待ち望んでいた人々の上に約束の聖霊が降られた。その聖霊は、今も注がれ続けている。
本書は馴染みが薄い書だが、大切なメッセージが記されている。ペトエルの子ヨエル(1:1)の素性は不明だが、内容から、南ユダ王国ヨアシュ王の治世(BC.837-800年)に活動したと思われる。時代的には平穏だが、民は霊的に堕落していた。信仰が形式的になっていた。神は裁きとしていなごの災害の警告を発せられた(1:1-2:11)。神は侮られるお方ではない(ガラ6:7)。実際にヨエルの時代にいなごの災害があったようだが、霊的には、終りの時代の神の裁きの預言だ。
それは大患難時代の到来だ。終わりの日にキリストが再臨される。まず空中再臨がある(1テサ4:16,17)。その時待ち望んでいた者、また教会が携挙される。その後、大患難時代が来る。その中で救われる者はまれだ。
大患難時代は神の裁きだ。しかし、神は憐れみ深いお方であって(18節)、小羊の血でエジプトから贖い出された神の民を、みすみす滅ぼしたくないと思われ、回復の約束を与えられた(2:12-27)。
主が大いなる回復のみ業を行われる(21節)。初めの雨と後の雨の約束だ(23節)。前者は種蒔きに必要な秋の雨で、後者は収穫に必要な春の雨だが、リバイバルの約束を意味している。
民がいなごの裁きに遭ったのは彼らの不信仰、傲慢の故であって、神に責任はなかった。しかるに、神は「償おう」(25節)と言われる。私たちは、災いに遭ったのを神のせいにするところがあるが、自らの不信仰が招いた結果と受け取る謙虚さが必要だ。神に「償おう」と平然と言わせる向きがある。神にそう言わせること自体、私たちの傲慢の罪だと知るべきだ。
神が私たちの真ん中に、教会のただ中に救いの勇士、勝利の主としておられる(ゼパ3:17)。この主を知ることこそ祝福の秘訣だ。
大いなる聖霊傾注の約束が与えられている(28節)。「その後」とは終りの時だ。終りの時代はもう始まっている。
ペンテコステの日に、エルサレム市民を前にペテロが説教した。使徒2:16-21はここからの引用だ。彼は「その後」を「終わりの日に」と言った。終末のリバイバルの預言の成就だと語った。息子・娘は預言するとは、福音宣教を担うことだ。年寄りが見る夢とは、はかない夢ではなく、確実な新天新地の夢だ。若い男は幻、リバイバルのビジョンを見る(32節)。人々が続々と教会へ送られて来る。信仰が回復される者、新しく救われる者が起こされる。神の救いの計画の完成を垣間見せられる。これが終りの時の大いなる約束だ。
「主の大いなる恐るべき日」(31節)は、使徒2:20では「主の大いなる輝かしい日」となっている。恐るべき日だが輝かしい日、神のみわざが成るリバイバルの時だ。
鍵は「わたしの霊をすべての人に注ぐ」すなわち聖霊の注ぎだ。すべて贖われた者への約束だ。キリストの十字架の血で罪赦され義とされた者に与えられる。ただし機械的にではない。謙遜と渇きと信仰が求められる。不信仰と傲慢を悔い改める謙遜、このままでは進めないからどうしても聖霊の注ぎを頂きたいという渇き、主は必ずみ言葉の通りに実現してくださると信じる信仰だ。
今は終りの時だ。すでに2000年が経過している。長すぎるのではない。神の物差しは異なっている(2ペテ3:8)。まだ来ないと言って侮ってはならない。神はいたずらに実行を遅延しておられるのではなく、忍耐しておられる(2ペテ3:9)。あなたが砕かれて主の前に出てくるのを待っておられる。
厳しいメッセージだ。終りが近いからこそ、神が迫られるのだ。真摯に受けとめ、従おう。聖霊の注ぎを求め、大いなる約束の実現を期待しよう。