立派な信仰とは
マタイ15:21-28
今日の箇所は、異邦人の女性が娘の癒しを求めてイエスのもとに来る場面だが、彼女の切羽詰まった様子と相反して、イエスの対応は驚くほど冷遇ととれる。だが、このイエスの姿勢にこそ、今日私たちが学ぶべきポイントがある。
この女性に対して、イエスは最初沈黙をもって応えられた。弟子たちは、彼女を嫌がり、聞こえよがしに批判した(23節)。しかし、彼女は決してひるまず、叫び続けた(22節)。次に、イエスは明らかな拒否を示された(24節)。これに対して彼女は、ただひれ伏し、憐れみを求めて懇願するほかなかった(25節)。ところが、イエスはさらに言葉を重ね、今度は侮辱の一言を投げつけられた(26節)。それに対しても彼女は、「主よ、そのとおりです」と、へりくだりをもって受け取り、「ただ…」と、なおも食い下がって憐れみを求めた(27節)。実は、イエスが彼女に対してとられた対応は、決して意地悪や冷淡からのものではなく、彼女の中に心からの飢え渇きを起こさせ、信仰を引き出すための取り扱いだった。そのために必要だったのは、彼女が徹底して打ち砕かれて自分の姿を目の当たりにし、かつそれを受け止めて、なおも恵みを求めることだった。
私たちの祈りや訴えに対しても、神は同じような取り扱いをお与えになることがある。神は、ときに沈黙をもって私たちを取り扱われることがある。あるいは、ときに人の批判や非難、反対をもって私たちを取り扱われることがある。そのようなとき、私たちは彼女のように、あきらめたり、やけを起こしたりせず、神の前に出続けていきたい。また、神は、私たちの願いを一旦退け、全く違う、ときに真逆の方向へと導かれることもある。そのようなとき、私たちは彼女のように、神の前にへりくだり、憐れみを求めたい。
そして、神は私たちを、なぜこのような仕打ちをされるのかと言いたくなるようなところを通らせることがある。しかし、これこそ神が私たちを取り扱ってくださる最大の目的、すなわち、私たちが打ち砕かれ、自分の姿を目の当たりにするために必要なことなのだ。イエスは、彼女に向かって最後に「あなたの信仰は立派です」とおっしゃった(28節)。立派な信仰とは何か。決してあきらめないことか。途中で投げ出さず、信念を貫くことか。そうではない。打ち砕かれて、自分の姿を認め、さらに憐れみを求めて神の前に出ていくことだ。そのような者を神は蔑まず、豊かな恵みを注いでくださる(詩51:17)。
私たちが、打ち砕かれ、自分がどれほどの罪人であり、滅びる存在であるのかを悟ったとき、私たちはキリストの十字架と復活に表された神の救いに与ることができる(エペ2:1-5)。自分の罪深さに打ち砕かれ、心の底から救いを求めてキリストのもとに来る者に、キリストの救いははっきりと与えられ、明確に救われた者として歩み始めることができる(ヨハ7:37,38)。そのようにして明確に救われた者は必ず、救われた後なおも罪を犯す性質が内に残っていることに気がつく。気がついたならば、ごまかしたり逃げたりせずに、自分がどれほどの汚れた者であるかに光を当てていただきたい。私たちが自分の汚れた姿に打ち砕かれ、虚しくなって神の前に出ていきたい。私たちが自分の肉を十字架につけて始末するとき、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19,20a)。私たちは、内に生きて働いてくださるキリストを通して、信仰によって生きていくことができる(ガラ2:20b, ヘブ12:2a)。
この一人の母親は、娘の癒しだけでなく、彼女自身の信仰も取り扱われ、キリストを信じる信仰によって生きる歩みへと導かれた。自分の姿を悟り、打ち砕かれることによって、私たちも信仰によって生きる歩みへと導いていただくことができる(2コリ13:5a)。私たちも、打ち砕かれて、神の前に出ていきたい。