神の国を受け入れる者
マルコ10:13-22
今日の箇所は、子どもたちをイエスのもとに連れてきた人々を弟子たちが叱った場面と、イエスのもとに導きを求めてきた一人の人が立ち去る場面だ。マタイ、マルコ、ルカの福音書のどれも、この二つの場面を続けて記している。この二つの記事には関連性があるのだ。
前半から見たい。イエスはここで、人々を叱った弟子たちに対して憤られた(14節a)。人々が子どもたちを連れてきたのは、イエスに手を置いて祈っていただくためだった(16節)。弟子たちはイエスの祝福を阻もうとしたのだ。彼らは、先にイエスから、一人の子どもを真ん中に立たせて、傲慢を諭されたばかりだった(9:33-37)。傲慢と頑なさは、神の祝福も信仰の成長も阻む。
イエスは改めて、弟子たちを諭された(14b,15節)。「子どものように」とある。子どもの心はやわらかい。また、自分の非力や不足を自覚している。だから、それが許される相手には全信頼を寄せる。神はこのような心を喜ばれる。「神の国を受け入れる」とは、キリストを救い主として信じ、キリストを通して与えられる祝福を素直にいただくということだ。そのために必要なのは、傲慢や頑なさを捨てて、やわらかく低い心で神の前に出ることだ(マタ5:3, ヤコ1:21)。このことを弟子たちに教えるために、イエスはあえて厳しい態度を示されたのだ。そして、この実例として、今日の後半の記事が起こった。
この一人の人は、イエスのもとに一途で謙虚な態度でやってきた(17節)。その後の彼の質問は、的確で潔い。イエスの返答も、核心に迫っている(19節)。イエスが引用された十戒は、後半だけだ(出20:12-17)。十戒の前半は神に対する戒め、後半は人に対する戒めだ。ここでイエスは、あえて人に対する戒めだけをお答えになることで、彼に必要なのは神に対する心なのだと教えておられるのだ。他の場面で、イエスが似たような質問を受けられたとき、神に対する愛と人に対する愛の両方が最も大切だと導かれた(ルカ10:25-28)。今日の箇所で、この人は、神に対する自分の心に光が当てられ、自分が神よりも金銭に執着していることに目が向かなくてはならなかった。だが、彼は胸を張って、幼い頃から全て守っていると返すだけだった(20節)。そんな彼をイエスはいつくしみの眼差しで見つめ、核心をつかれた(21節)。神よりも優先させるものを捨て、私に従ってきなさい。これが、彼の質問に応えうる唯一の道だ。ところが、彼はこの言葉に従うことができず、立ち去ってしまった(22節)。イエスのいつくしみに満ちた眼差しは、きっと彼の立ち去る背中に注がれていたことだろう。
この章の最後に登場する盲目の物乞いバルティマイに、イエスのもとを立ち去った人とのコントラストを見る(10:46-52)。彼は、駆け寄ることもひれ伏すこともできなかった。礼儀正しい呼びかけもなかった。律法を落ち度なく守ってきたと胸を張ることもできなかった。けれども、子どものようにやわらかい心で、低くなって、イエスに憐れみを求めた。そして、彼の唯一の財産であった上着を脱ぎ捨て、喜んでイエスに従っていった。
私たちはどうか。子どものようにやわらかい心で、低くなって神の前に出ているか。そのような心で、まずキリストの救いを受け取りたい。キリストは、私たちを滅びから救うために十字架にかかって死に、よみがえってくださった。誰でも罪を悔い改め、キリストを信じる者は、罪の赦しと滅びからの救いをいただき、永遠の命に生きることができる(ヨハ3:16)。私たちも、子どものようになってこの福音を受け取りたい。また、救われてもなお内に残る罪の根も、私たちが子どものように神の前に出続けるならば、神は必ず光を当て、取り扱ってくださる。私たちが肉を十字架につけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて、働いてくださる(ガラ5:24,2:19b,20a)。内に働いてくださるキリストを通して、神は私たちを導き、御心に開かれた、永遠の命を受け継ぐにふさわしい者として歩ませてくださる。
私たちは自らの心に目を向けたい。傲慢や頑なさを捨て、やわらかく、低い心で神の前に出たい。神はそのような心を喜ばれる。