わたし自身が一緒に行く
出エジプト33:1-23
イスラエルの民は、モーセに率いられて奴隷の地エジプトを脱出し、荒野を旅し、シナイ山にたどり着いた(出19:1,2)。そこで神は、モーセを山に登らせ、神のおしえと命令、つまり律法を授けた(出24:12-18)。山の上で彼は、神の御心が余すところなく込められた律法を示していただいた。ところが、山の麓では、モーセが戻ってくるのを待ちきれなくなった民が不信仰に陥った。そして、金の子牛を作り、神が最も忌み嫌われる偶像礼拝の罪に走った(出32:1-6)。山から下りたモーセは、神につくことを表明したレビ人たちの手によって、民に対して厳しいさばきを命じた(出32:26-28)。それから彼は、神の前に出て、民のためのとりなしをした(出32:30-34)。今日の箇所は、これらの出来事が起こった直後の記事だ。
あまりの民の強情さと傲慢さのゆえに、神はご自身が民とともに行くことをやめると言われた(1-3節)。見捨てるということではない。「わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするため」という神の憐れみから出たことだった。また、責任をとらないということでもない。「あなたがたの前に一人の使いを遣わし」とある通り、先導する御使いを立ててくださるという神の真実も貫かれていた。しかし、神ご自身がともにおられないという事実は、民にとって、そして、モーセにとって由々しきことだった。民は、モーセを通して神から命じられた通り、身から飾り物を外した(4,5節)。外見上の格好や体裁などにかまけて、自分の内側を深く見て、神の前に虚しくなって出ることが疎かになってはいけないからだ。かの金の子牛は、民が身につけていた耳飾りを集めて作られた(出32:3,4)。虚栄がいかに堕落の引き金になりうるかがわかる。
さて、モーセは神の前に出て、民とともに上ってくださるよう嘆願した(12,13節)。彼の切実な祈りはすぐに神の御心を動かし、神は臨在の約束を与えられた(14節)。ところが、彼の方はなおも食い下がり、神に念を押すようにして祈り続けた(15,16節)。彼の真剣さ、神に対する誠実さ、民への愛の深さ、そして、神がおられなければ一歩も進めないという徹底したへりくだりと信仰の現れだ。そのような彼の祈りに神は応えられ、栄光を見せていただきたいという彼の求めに対して、祝福の約束とともに栄光を現してくださった(17-23節)。
かつて、バックストンは「臨在は救いなり」と語られた。詩篇42:5の英訳聖書欄外に記されている言葉だという。確かに、このとき、神は臨在をもって民に救いを現された。今も、神は臨在をもって私たちを救いに導いてくださる。イエス・キリストは、まさに神の臨在を最もわかりやすい形で現すために、神から遣わされてこられた(ヨハ14:9)。キリストが十字架にかかって死に、死を破ってよみがえられたことによって、私たちに救いの道が開かれた(ロマ4:25)。私たちは自分の罪を悔い改め、キリストを信じる信仰によって、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる。
私たちはまず、このキリストを救い主として信じ、罪の問題にはっきりと解決し、救いのスタートを切りたい。さらに、救われてもなお内に残る罪の性質にも光を当ててくださるのが神の救いだ。私たちも、虚栄にうつつをぬかして、目を神以外のところに向けるなら、いとも容易くイスラエルの民と同じ轍を踏んでしまう。自らの姿を直視し、虚しい心で神の前に出ていくなら、神は私たちを豊かに取り扱ってくださる。私たちが自分の罪の性質を十字架につけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19,20)。私たちは、内に働いてくださるキリストによって、神の臨在の中を生きることができる。
「わたし自身が一緒に行く」と、神は今も私たちに語ってくださる。だが、私たちの方がどのような心になっているか。虚しくなって神の前に出ていく者でなければ、臨在はわからない。出エジプト記の末尾には、すばらしい神の臨在の様子が描かれている(出40:36-38)。ここに見えるのは、虚しい心で神の前に出続ける人々の姿だ。私たちも、このような歩みをさせていただきたい。