弟子たち主を見て喜べり
ヨハネ20:19-31
イースターを迎えた。主イエスの復活は私たちには喜びと希望だが、弟子たちには、主が復活された当日は悲しみと絶望と恐れの朝だった。イエス復活の知らせはマリヤから聞いていたし、彼ら自身も空の墓を確認していたが、信じられなかった。不信仰になっていたのだ。悲しみと絶望と恐れは不信仰から来ていた。
しかし、イエスはそのような彼らのただ中に立たれた。その手と脇腹には十字架の生々しい傷があった。まさしくよみがえられたキリストだった。弟子たちの悲しみは喜びに、恐れは平安に変わった。キリストの十字架と復活の福音は、私たちを喜びと平安に満たす。罪の赦しと死への勝利に導く。
主は弟子たちを遣わすと言われた(21節)。彼らは、この十字架と復活のキリストのもとから派遣された。自分で出て行っては、たちまちサタンの餌食にされてしまう(マタ10:16)。主から派遣されて、武装してでなければ出て行けない。イエスが彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」(22節)と言われたように、聖霊を受けなければ出て行けない。つまり、罪の赦しだけではなく、聖潔(きよめ)の恵みを頂かなければならない。
まず救いの恵み、罪の赦しの恵みをいただきたい。謙虚に罪を認め、悔い改め、十字架が自分の罪のためだった信じて、過去の罪の清算をしていただきたい。罪という神への負債を清算し、終わりの日に主から咎(とが)められるところのない魂になりたい。
過去の罪の清算が済んだ魂は、御言葉の光に照らされていけば、救われたのにまだ神に喜ばれないものがあることに気がつく。それが罪の根、罪を犯させる元だ。自分が一番かわいいという自我、自己憐憫と自己正当化の塊だという肉を持ったままでは、神に喜ばれない。
キリストは「完了した」(ヨハ19:30)と言って、十字架の上で救いを完成された。救われてもなお神に喜ばれない己が、キリストと共に十字架に死んで、よみがえられたキリストが内に住まわれるという恵みを、信仰をもって受け取る。これが聖霊を受けることだ。
この恵みをいただいたら、神の御心に従う者になる。へりくだって自己の無能に徹し、絶対的に神の大能に信頼して、御旨に徹底的に従順な魂になる。そういう魂になって、初めて主のもとから遣わされ、十字架と復活のキリストを大胆に宣べ伝えていくのだ。そうならせてくださいと求めよう。
イエスが現れたとき、トマスは不在だった。帰って来た彼は、“信じない”と言い張った。彼の根底には、喜んでいる他の弟子たちへの妬みがあったに違いない。8日後、弟子たちはまた戸を閉ざしていた。一度喜んだ弟子たちだったが、また不信仰になっていたのだ。そのような彼らに、憐れみ深い主は再び現れてくださった。そして、懐疑心と妬みの塊のトマスに静かに語られた(27節)。もちろんトマスは、傷跡に指を差し入れるまでもなく、「私の主、私の神よ」(28節)と言ってひれ伏した。砕かれたのだ。すべては砕かれるところから始まる。
主は「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)と言われ、また「あなたはわたしを見たから信じたのですか…」(29節)と言われた。見ないで信じるのが信仰だ(ヘブ11:1)。キリストの十字架を私たちは見ていないが、自分の罪と汚れのためだと信じ、キリストの復活を私たちは見ていないが、自分が真に生かされるためだと信じる。ここから私たちの救いは始まる。
世の終りが近い今、サタンは私たちが信じない者になるようにと誘惑してくる。しかし、アブラハムの信仰を思い起こそう(ロマ4:17,18)。
私たち一人びとりが、見ずに信じる信仰で生きる者になりたい。そして、主が再臨される栄光の朝、喜びに溢れる者になりたい。