キリストを信じて疑わない者
マタイ21:1-22
本日は、イエス・キリストがロバの子に乗ってエルサレムに入城されたことを記念する棕櫚の主日の礼拝だ。
マタイの福音書では、エルサレムに入城されたイエスを巡って、3種類の人々の様子が見られる。まず、群衆だ(8,9節)。「ホサナ、ダビデの子に」は、救い主をほめたたえる言葉だ。では、彼らは、イエスを救い主として信じていたのか。そうではなかった。彼らの理解と信仰は、“預言者どまり”だったことがわかる(10,11節)。エマオ途上で復活のイエスが現れた弟子たちも、同じだった(ルカ24:19)。
次に、神殿の中で売り買いし、両替する人たちだ(12,13節)。本来、静かに神を礼拝し、祈りをささげるべき神殿の中は、動物の鳴き声、売り買いする人たちの声、両替する金の音が絶え間なく響き、騒々しい様相だったと想像できる。何よりも、欲に満ちた心で、神殿内は世俗化の空気が充満していた。イエスが叫んだ「強盗の巣」の引用元には、「私たちは救われている」と公言して神の前に立ちながら、その心が汚れに満ちた姿が描かれている(エレ7:9-11)。
そして、祭司長たち、律法学者たちだ(15-17節)。彼らは、子どもたちが、「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのを見て、腹を立てた。イエスの受難予告の直後に、誰が偉いかに心を囚われていた弟子たちも(マタ20:24)、イエスの頭に香油を注いで葬りの準備をした女性を目にした人々も(マタ26:8)、同じように腹を立てた。どれも、イエスを信じようとするどころか、心を頑なにして、肉に生きる人の姿だ。
3種類の人々の姿は全て、いちじくの木の場面につながっている(18-22節)。神は、イエス・キリストを世に遣わし、十字架と復活によって神の救いを成し遂げてくださった。私たちがこの救いに与るためには、イエスを救い主と心から信じなくてはならない。どっちつかずによろめき、揺れ動いていては救いが始まらず、また救われた後も、その信仰は育っていかない(1列18:21,ヤコ1:6)。水の上を歩いて近づきたいと願ったペテロは、途中でイエスから目を離し、強風を見て怖くなり、沈みかけた(マタ14:28-31)。疑いの心とは、イエスから目を離し、他のものに目を奪われるところから始まる。救われた私たちがしっかりと救い主イエスを見続けるならば、やがて心の中が汚れで満ちていることに気が付く。祭司長たちや律法学者たちが、肉をさらけ出したように、汚れが内に満ちている状態では、肉のままに生きてしまう。疑わずに信仰によって生きることはできない。イエスが神殿から人々を追い出したように、私たちも、自分の汚れを認め、十字架のもとに持っていくならば、信仰によって始末することができる。汚れから決別した魂に、キリストが臨んでくださり、内に生きて働いてくださる。先述のエマオ途上の弟子たちも、目がさえぎられてイエスがわからなかったところから(ルカ24:16)、目を開いていただいた(同24:31)。主を内にいただいた者の象徴だ。その後、弟子たちの前に現れた復活のイエスは、「見なさい」と繰り返し、疑うことなく信じる者となるように彼らを諭された(同24:38,39)。
私たちも、キリストを疑わずに信じる者になりたい。十字架と復活による救いを明確にいただき、さらに、内に残る汚れも始末し、内にキリストに生きていただき、信仰に歩む者となりたい。