放蕩息子の帰還
ルカ15:11-24
今日の箇所は、イエスが語った譬え話の中でも大変有名なものだ。わかりやすいストーリーの中に、聖書のメッセージが凝縮されている。父親とは神のこと、息子とは私たちのことだ。私たちが神のもとに行くならば、神は私たちを喜んで迎え入れてくださる。今日、共に見たい場面が3つある。
1.息子が父のもとに立ち返る場面(17,18節)
「我に返って」とは、自分はここで何をしているのかと、はっとするということだ。これが彼の帰還のスタートだった。私たちも、まず自分がどれほど神から離れ、神の目に罪人であるかに気がつかなくてはならない(詩51:3,4)。自分の罪を悔い改めて神に告白するとき、私たちのために用意されている神の救いが始まる(1ヨハ1:9)。
2.父が息子を迎え入れる場面(20節)
戻ってきた息子を迎えた父の行動を、4つに分けたい。
- まだ遠くにいるのに息子を見つけた
父は毎日、外を眺めて息子の帰りを待っていた。神も、私たちにいつも御目を注いでくださる。私たちが心を翻して神に立ち返るかどうか、私たちの心を見ておられる(2歴代16:9a)。
- かわいそうに思った
内臓を意味するこの言葉は、神の憐みの御心を表す(マタ9:36)。罪のために滅びる私たちを神は憐れんでくださり、キリストを私たちのもとに遣わしてくださった。
- 駆け寄って息子の首を抱いた
ここにキリストの十字架を見る。キリストは、駆け寄るかのように、人となって私たちのところに来てくださった。十字架の上で命を投げ出し、私たちを抱くかのように、私たちの罪を覆ってくださった。このキリストの十字架によって、私たちはどんな罪も赦され、神の救いに入れていただくことができる。
- 口づけした
口づけは親密な関係を表す。神は、救われた者を友と呼んでくださる(ヤコ2:23,ルカ5:20)。しかし、残念ながら、私たちはそれにふさわしい者ではない。肉のために、むしろ神を裏切ってしまう。口づけをもってイエスを裏切ったユダのようにだ(マタ26:48-50)。明確に救われた者は必ず、自分の罪の本性に気が付く。気が付いたならば、打ち砕かれて神の前に出たい。私たちが、神の前で自分の肉を十字架につけて始末するなら、キリストが我が内に臨んで生きてくださる(ガラ5:24、2:19,20)。私たちは、内に生きてくださるキリストによって、神に口づけしていただくにふさわしい者となることができる。
3.父が息子を整えてもてなす場面(22,23節)
ここにも4つのポイントを見る。
- 一番良い衣に着替えさせた
聖なる生き方を指す(ゼカ3:3-5,黙7:13,14)。内に生きてくださるキリストは、私たちを聖なる者として歩ませてくださる。
- 手に指輪をはめさせた
これは、明確な相続権の継承を表す(創41:42,黙21:7)。もう二度と罪と肉に身を任せ、神から離れないという私たちの信仰でもある。
- 足に履き物をはかせた
内にキリストに生きていただき、神の相続に生きる者は、敵を足の下に組み伏し、踏み砕く(ロマ16:20,黙7:15-17)。
- 祝いの席を用意させた
終わりの日に神は、サタンに完全な勝利をとり、私たちを勝利の宴に招いてくださる(黙12:10-12a)。
最後に、父によって整えられ、もてなされて初めて、放蕩息子の帰還は達成した。私たちも神のもとに立ち返りたい。