キリストの弟子
ルカ9:51-62
イエスの3年半の公生涯は大きく3区分できる。初期の伝道、ガリラヤ伝道、ユダヤ伝道だ。ユダヤ伝道は十字架を指してのお働きだった。共観福音書では区切りが明確だ(マタ19:1、マル10:1、ルカ9:51)。特にルカは印象的な一句で、「イエス天に挙げらるる時満ちんとしたれば、御顔を堅くエルサレムに向けて進まんとし」(文語)とあり、主のお覚悟のほどが伺える。
十字架を指してエルサレムヘ進み行かれるイエスは、途中、サマリア人の村を通過された際、村人の拒否的な対応を受けられた。弟子のヤコブとヨハネは、彼らに対する焼き討ちを提案した。これが義憤ではないことが、元訳で56節の前に入っている一句からわかる。「爾曹(なんじら)の心如何(いか)なる乎(か)を自ら知ざるなり。人の子は人の命を滅す為に来(きたら)ず惟(ただ)これを救う為なり」とある。
主は弟子たちの心を見透かしておられた。主が受け入れられなかったことへの義憤ではなく、自分たちのプライドが傷付けられたことへの私憤だったのだ。外はどれほど繕っても、内にあるものが出てくる。主は内側をごらんになる。動機が問題なのだ。
57節以下に、三人の弟子志願者が登場する。一人目は、自分から弟子たることを申し出た(57節)。彼は召しもないのに簡単に立ち上がったのだ。主のお答えは、「人の子には枕する所なし」(58節文語)だった。主に従う道は祝福に満ちている。しかし決して平易ではない。むしろ困難や試練があるかもしれない。主からの召しがなければ耐えられない。困難や試練に遭って、簡単に放棄されては、主の栄光にならない。
二人目は、主のほうから「我に従え」(59節文語)とお声をかけられた。それに対して彼は、まず父を葬りに行ってからと条件を出したが、主は、死人を葬ることは死人に任せるように言われた(60節)。主が冷酷なのではない。彼の父はまだ健在で、今死に瀕しているのではないのだ。高齢の父を最後まで面倒を見て、その後で従うと彼は言うのだが、おそらく彼には他にも兄弟がいて、やがて死を迎える父の面倒は、やはりやがて死を迎える他の兄弟に任せればよい。罪のために死んでいる魂に真の命を吹き込む福音を宣べ伝えるわざは、主に召された者にしかできない。主は、お前にしかできない事のために、今直ちに従えと言われるのだ。主の弟子になるためには、不問即座の服従が求められるのだ。
三人目も、家族に別れを告げてから…と、やはり条件付きで志願した(61節)。これから主の弟子になり、それほど頻繁には帰郷できないかもしれないのだから、それくらい許されてもいいのでは、と思うだろうか。主のお答えは、「鋤に手をかけてからうしろを見る者は…」(62節)という非常に厳しいものだった。ここでも主は、内心を見ておられる。情にほだされて、従う志が鈍らされる可能性があるという彼の弱さをご存じだったのだ。主に従うためには、愛情の聖別が必要だ。
主に従う道は、①困難に対する覚悟、②不問即座の服従、③愛情の聖別が求められる。「我に従え」という御声を聞いて、すぐに従いたい。ぐずぐず延期せず、妨げるものを捨て去って、潔(いざぎよ)く従いたい。主は、主よりも自分や富を愛する思い、体面を気にする思いなどがないか、私たちの心の内をごらんになる。
主に喜ばれるよりも人に喜ばれたい、人の歓心を買いたいという肉を十字架につけ、絶えず神の御心に従われたキリストが内に生きておられるという信仰で生きる者となって、真のキリストの僕になりたい(ガラ1:10)。
主は、私たちがどれだけ真剣か、本気かをごらんになる。自分の内にどういう心があるかを省みよう。いつ、どこを主に見られてもよい魂で主に従いたい。再臨の主に、“よく最後まで従って来た”と認めていただけるキリストの弟子になりたい。