主は砕かれた人と住む
イザヤ57:1-21
預言者イザヤの時代、人々は偶像礼拝に陥っていた。彼らに向かって、彼は真の神に立ち返るようにというメッセージを語り続けた。
今日の箇所を、逆接の接続詞を鍵にして見ていきたい。
- 「しかし」(3節)
ここから、目も覆いたくなるほど乱れ、悪に染まった人々の罪の姿が描かれている。今、私たちの生きる世界の姿でもある。終わりの時代である今、真の神を知らない人々の様相は、どんどん悪に傾き、汚れ、罪深くなっている(2テモ3:1-5a)。9,10節には、偶像礼拝に奔走する姿があるが、今も人々は、自分が価値を置く“偶像”のために、全てを使い果たし、疲れ果て、心は満たされないままなおもしがみついて生きている。真の神を知らず、神から離れて生きているという罪がその原因だ。この罪をもったままでは、人は神の前に立てず、魂が滅びてしまう(ロマ6:23a)。
- 「しかし」(12,13a節)
真の神を知らず、神から離れた人々の間でも、善行、善意を積んで生きる人々はいる。だが、罪の問題が解決されない限り、やはり滅びてしまう。どんなに立派な、人が称賛する生き方であっても、虚しく、何の救いにもならない。
- 「しかし」(13b節)
この「しかし」は大きい。神は、滅びゆく私たちを憐れみ、キリストの十字架と復活による救いの道を開いてくださった。自分の罪を悔い改め、キリストの十字架と復活を信じる者は、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる。このキリストのもとに行き、身を寄せるところから全てが始まる(イザ14:32, マタ11:28)。このキリストの救いにあずかった者には、平安と将来と希望が約束される(エレ29:11)。この約束を確かに与えていただくためには、道を整える必要がある(14節)。これは、私たちの霊の成長を表す(エペ4:15,16)。そのために私たちは、つまずき、つまり、救われてもなお内側に残る汚れを取り除かなくてはならない(ホセ5:5)。
- 「しかし」(17節)
自らの汚れが内に残っていることを認めず、むしろ神に逆らい、神の取り扱いの御手を拒む者たちに対しては、神は怒りを発せられる。自らの姿に気づかせるため、正しい道に連れ戻すための怒りだ。しかし、なおも心を頑なにする者たちは、自分の思う道を行く。
- 「しかし」(20,21節)
だが、どんなに自分の思う道を行っても、神を拒んでいる限り、鎮まることなく荒れ狂う嵐の海のように、平安もなければ、確信も、喜びもない。「私の神はそう仰られる」というところに、語るイザヤの痛みと祈り、また、神の悲痛な御心が込められている。
- 「それでも」(18,19節)
それでも、神は御手を延べ、私たちを癒し、平安を与えてくださる。そして、「つまずきを取り除け」、悪から離れて捨て去れと語ってくださる(2コリ6:14-18)。私たちが、神の御心を知り、また、自らの汚れた姿、神に逆らい、神を拒んできた姿を認め、神の前に出て自らの肉を十字架につけて始末するとき、キリストが我が内に望んでくださる(ガラ5:24, 2:19,20)。キリストが内に住み、共に歩んでくださる。私たちは、霊と心を本当の意味で生かされた者として、主と共に生きていく(15節)。
私たちは、砕かれた人となっているか。まず、キリストに身を寄せて、キリストの十字架と復活による救いを確かにいただきたい。さらに、内側の汚れを見て、そのつまずきを十字架につけて捨て去りたい。そして、キリストに内に臨んでいただき、主の癒しをいただきたい。自らの姿を点検し、神の前に取り扱っていただきたい。