礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2024.02.11

神のことばの種

ルカ8:4-15

本日は「種蒔きの譬え」とよく呼ばれる、イエスが語られた譬え話の一つが開かれている。マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書に収められており、どれにもイエス自身による解説が後に続く。それほど私たちにとって重要なメッセージがあるということだ。

この譬えは、読んでいると、種が蒔かれた土地が問題なのだとわかる。種とは、神のことばを表す(11節)。福音、つまり、聖書で語られる神からの救いのメッセージのことだ。では、ここに出てくる種が蒔かれた4種類の土地とは、神のことばを聞く私たちの心のことだ。

一つ目の「道端」(5節)と、それに対する解説(12節)を見たい。種を食べる「鳥」は、悪魔のことだと言われている。だが、それだけではない。「人に踏みつけられ」るとある。これは、聞いた人が自分で踏みつけることを指す。もう聞きたくない、自分には関係ないとみことばを拒み、心の足で踏みつけている姿だ(使13:46)。私たちは、みことばを拒むことなく、心を素直にして受け入れたい(ヤコ1:21)。そうすれば、種は蒔かれ、神の救いのメッセージが私たちの心に届く。

二つ目の「岩の上」(6節)と、それに対する解説(13節)を見たい。「水分」と「根」がなかったために枯れたとある。根がしっかりと張られているから、水分が蓄えられ、植物は枯れずに成長する。根とはキリスト、さらには、キリストの十字架による明確な救いを指す(黙5:5, コロ2:7)。私たちに滅びからの救いを与えるために、キリストは神から遣わされ、十字架にかかって死に、死を破ってよみがえられた。このキリストの十字架と復活を信じる者は、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる。明確な救いをいただいた者は、心に確かな根を与えられ、注がれ続ける水分をしっかりと蓄えて成長する。

三つ目の「茨の真ん中」(7節)と、それに対する解説(14節)を見たい。茨という植物は、ギリシャ文化では価値あるものとされていた。だが、世で賞賛され、もてはやされることに、救われた者が目を向け、心を傾けていくなら、神のことばはふさがれる。マルコの平行記事には、「欲望が入り込んで」くるとある(マル4:18,19)。明確な救いをいただいた者は、自らの心に茨が潜んでいることに気づく。欲望という茨をそのままにしていると、それが神に取って代わり、最後には滅びる(ピリ3:18,19)。私たちは、自らの心に肉の茨を見つけたなら、そのままにせずに神の前に出たい。私たちが自らの肉を十字架につけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, ガラ2:19,20)。私たちは、我が内におられるキリストによって、茨を除去し、次の「良い地」へと変えていただける。

最後の「良い地」(8節)と、それに対する解説(15節)を見たい。マタイとマルコのほうと併せて読むと(マタ13:23, マル4:20)、「立派な良い心」とは、聞いたみことばを「受け入れ」「悟る」心だとわかる。語られるみことばを私たちが素直な心で聞き、それを受け入れ、また、神の御心を悟るなら、私たちは豊かな実を結ぶことができる。キリストの救いをいただき、さらに、内にキリストに生きていただくとき、私たちの心を神は喜んでくださり、私たちを通して神が働き、実を結ぶ存在としてくださる。

私たちの心は、どの土地の状態だろうか。私たちが、自分の心を見て、自らの姿を悟り、「良い地」に変えていただきたいと求めるならば、神が私たちを導き、私たちを変えてくださる(ロマ12:2)。