水をもぶどう酒に変えて下さる主
ヨハネ2:1-11
イエスがカナで村人の結婚式の客となられたとき、祝いの席に欠かせないぶどう酒が底を突いた。それにいち早く気づいた母マリヤは、イエスに訴えた。しかし主は、「わたしの時はまだ来ていません。」(4節)と言われた。
イエスはいつも神の時、父の御心に従われた(ヨハ5:19)。母から頼まれたから腰を上げるのではない。父なる神の時が来なければ、自分では決して動かない、しかし、時が来ればいつでも立ち上がる、というところに立っておられたのだ。実際、主は直後に「さあ、それを汲んで…」(8節)と言われた。主は、ご自身の時に、私たちの祈りに応えて下さる。神の御業がなされるために、まず主ご自身の神に対する従順があった。
母は「あの方が言われることは、何でも…」(5節)と手伝いの人たちに言った。一見冷淡に拒まれた母だったが、イエスヘの信頼は変わらなかった。マリヤにとってイエスは、腹を痛めて産んだ我が子だが、聖霊によって与えられた神の子だった。「ご覧ください。私は主のはしためです…」(ルカ1:38)と御旨に従って宿し、産んだ子だ。我が子だが我がものではない、主のものだ。そのような子の母となることについて、彼女は御旨への服従を学んだのだ。ぶどう酒のしるしが現されるために、神の御旨に対するイエスの従順があっただけでなく、イエスに対する母マリヤの従順があった。
さらにもう一つの従順があった。言いつけられた給仕の者たちは、水がめを縁(ふち)までいっぱいにして、宴会の世話役の所に持って行った。ここに彼らの従順がある。彼らは自分たちが汲んでいるのがただの水だと承知していながら、80~120リットル入りの水がめを満杯にして黙って運んだ。とにかく彼らは従ったのだ。
宴会の世話役のもとに着いた水は、極上のぶどう酒に変わっていた。彼らが運んでいる途中で、つまり従っている間に変わったのだ。
神の力は現された。水はぶどう酒に、欠乏は満足に、不安は平安に変わった。この主は、私たちの生活のただ中に立ち上がられる。私たちにも、ぶどう酒が底を突くことがある。教会生活や職場や地域での人間関係において、家族との絆において、ぶどう酒の欠乏を経験することがある。
喜びと満足のない、干からびた人生は、実は自分の罪に起因する。主は、その私たちの罪のためにイエスは十字架にかかられた。罪の悔い改めと十字架を信じる信仰により、罪の赦しをいただくことができる。
さらに、勝利のないクリスチャン生活も、自分に原因がある。御言葉の光に従って行けば、強情で傲慢な自我、自分中心の肉があることに気づく。主は、そのような私たちのために十字架にかかられた。主は十字架で古き人の始末をつけ、キリスト内住の恵みを与えてくださる。そして、内に喜びと平安が溢れるクリスチャン生涯を歩ませてくださる。
また、困難や試練にぶつかるときも、真実な主に対する絶対信頼により、乗り越えることができる(ロマ8:31,37)。
人間の力が尽きた時こそ、神が始めなさる時だ。主は私たちに信仰の力を与えて下さる。まず、「ぶどう酒がありません」と主に訴えよう。自らの欠乏を認めて、主に求めよう。私たちの神は、「だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神」(ヤコ1:5)だ。
水をもぶどう酒に変えて下さる主、欠乏を満たして下さる主に信頼しよう。給仕の者たちは従ったから、栄光を拝した。私たちも、ただ主を信じ、従っていくところに、主の栄光を拝することができる。