実を結ぶ者
エゼキエル47:1-12
エゼキエルは、バビロン捕囚前から捕囚後にかけて活動したユダ王国の預言者だ。エゼキエル書は、捕囚前に書かれたと言われる、1章〜33章と、捕囚後に書かれたと言われる、34章〜48章に分けられ、前者は審判のメッセージ、後者は回復のメッセージが中心となっている。今日開かれている47章は、回復のメッセージの集大成とも言える。この中から、水、川、実という3つのポイントで学びたい。
ポイント1:水(1節)
エゼキエルは、幻によって神の栄光に満ちた新しい神殿を見せられていた。その神殿から水が流れ出ていたとは、救いの水は神のもとでしか与えられないことを指す。世も水を与えるが、それではまた渇く(ヨハ4:14)。キリストは、いつまでも渇かない水を与えるために、神から遣わされて私たちのところに来られ、十字架にかかって死に、死を破ってよみがえられた。誰でも自分の罪を悔い改め、キリストを信じる者は、罪の赦しと滅びからの救いを与えられる。キリストの救いにあずかった者は、永遠のいのちへの水を湧き出させる泉をその内側に与えられる。その泉から湧き出た水は、川になって流れ出る(ヨハ7:38)。
ポイント2:川(3-5節)
神殿から流れ出た水は、川になっていた。しかも、御使いが測り縄で測り、エゼキエルを渡らせるたびに、川は深くなっていった。これは神の恵みが深くなることを表している。明確な救いをいただいた者は神から恵みをいただき、神の恵み深さを理解していく。渡らせるとは、主の訓練を表す(ヘブ12:5,6,11)。この主の訓練によって、私たちの魂と信仰は成長することができる(コロ1:10)。だが、どんなに主が私たちを訓練し、成長させようとしてくださっても、私たちがそれを拒むならば、魂が塩地のままで残る(11節, 申29:23, 創19:26)。心を頑なにして主に信頼しようとしない者は、心が主から離れてしまい、不毛の生涯を送ることになる(エレ17:5,6)。私たちの心を頑なにし、主の御手を拒ませるのは、私たちの肉だ。救われた後も内側に残る、神に逆らう性質、罪を慕い続ける本性だ。私たちが自分の実態に気付き、それを神の前で十字架につけて始末するなら、キリストが私の内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19,20)。内に生きて働いてくださるキリストによって、私たちはどこまでも主に信頼し、主に喜んでいただける歩みを送ることができる(エレ17:7,8)
ポイント3:実(12節)
内に生きてくださるキリストによって、私たちは神にささげる果実を結んでいく(レビ27:26)。かつては、自分を喜ばせ、自分のために生きて、あるいは、人の目を気にしながら、世の価値基準で生きていた者も、神に喜んでいただき、神の前で御霊の実を結びながら歩んでいく(ガラ5:22,23)。そのような実を結ぶ者の歩みは、天国に直結している(黙22:1,2)。今の世界は間もなく終焉を迎え、全てが朽ち果てる。しかし、神の前で実を結ぶ者は、再び来てくださるキリストに引き上げられ、天の御国で永遠に生きる。
私たちの歩みはどうか。実を結ぶ者となっているか。光を当てていただき、自らを神の前で省みたい。