礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2024.01.14

信仰によって

へブル11:1-16

今日は、「信仰列伝」と一般に言われる箇所の一部が開かれている。天地創造(3節)に続いて、アベル(4節)、エノク(5節)、ノア(7節)、そして、アブラハム(8-12節)を取り上げ、彼らの信仰について述べている。

天地創造に対する信仰(創1:1)

神が、ことばで世界を造られたことを信じることが信仰の始まりだと語られている。目に見えないものから、目に見えるものが造られたと信じることに信仰が必要だからだ。

アベルの信仰(創4:4,10)

彼は、すぐれたいけにえをささげたことと、彼の死によってなおその信仰が語られているということによって、その信仰が証しされている。新約の光では、彼はキリストの型だ(ヘブ12:24)。キリストは自らをすぐれたいけにえとして十字架の上で命を捨ててくださった。このキリストの十字架の死によって、神の救いの道が開かれた。

エノクの信仰(創5:22,24)

彼は、神に喜ばれた歩みを送ったことと、天に移されたことによって、その信仰が証しされている。彼もまた、キリストの型だと言える。キリストは、地上において、神にどこまでも従い、神の御心を行い、神に喜ばれる歩みをされた(マタ3:17)。そして、死を打ち破り、よみがえられた(ルカ24:5,6)。私たちの信仰の模範となるためだ。

ノアの信仰(創6:13,14a)

エノク同様、彼も神とともに歩み、神に喜ばれた。だが、彼の信仰を決定づけたのは、世を罪ありとし、義を相続する者となったことだった。彼の姿は、私たちにとっては、罪がわかり、キリストの救いに与るときを表す。自らの罪がわかり、自らが罪に満ちた世に生きてきたことを悟った者が、キリストのもとに来て十字架の救いに与る(エペ2:1-5)。このキリストの救いに与った者は、義を相続する者となることができる(テト3:7)。

アブラハムの信仰

彼の信仰は、神に従って、罪と汚れに満ちた土地を出て行ったこと(創12:1)、地上では他国人のように生きたこと(使7:5)、そして、約束を待ち望んだこと(創17:19)によって評価される。私たちにとっては、肉と汚れを捨て去って始末し、内にキリストに来ていただくことを表す。救われた後、なおも内側に残る汚れをそのままにしている限り、私たちは信仰によって生きることはできない。そこから決別し、捨て去る必要がある(2コリ6:14-18) 。私たちが肉を捨て去り、十字架につけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きてくださる(ガラ5:24,2:19b,20a)。 そうして、内に生きて働いてくださるキリストによって、私たちは信仰によって生きる者となることができる(ガラ2:20b)。信仰によって生きる者には約束が与えられる。再臨の主とお会いできるという約束だ。この約束を待ち望みながら、信仰によって地上を旅人、寄留者として歩んでいく(13節)

私たちは信仰によって歩む者となっているか。自らの信仰を省み、神に喜ばれる、生きた信仰をささげながら生きていきたい。