礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2024.01.07

善かつ忠なる僕

マタイ25:14-30

天の御国に関するタラントのたとえだ。主人が旅に出るとき、三人のしもべに五タラント、二タラント、一タラントと財産を預けた。五タラント、二タラントを預かったしもべは、それで商売をして、それぞれ倍に増やし、主人から賞賛された。しかし、一タラントを預かったしもべは、そのままにしておいて、主人から叱責された。彼の決定的な過ちは、愛と真実に富む主人を理解していなかったことだ(24節)。

このたとえは、私たちが賜物をどう生かすかということの教訓だ。タラントとは、才能、または才能ある人と訳される言葉だ。神は私たちに、「おのおのその能力に応じて」(15節)タラントを預けておられる。私たちをよくご存じの神は、一律ではなく、分に応じて賜物を与えておられる。だから、自慢することもひがむことも不要だ。

最初の一タラントは、全ての者に提供された賜物、すなわち救いの恵みだ。これは無償、無条件で与えられたものだ。ただ罪を認め、神の前に悔い改め、キリストの十字架を信じる信仰によって、私たちに与えられた恵みだ。まず、この1タラントを自分のものにしたい。せっかくの恵みを無駄にしないようにしたい。

クリスチャンであっても、救いを確認すべきだ。義認がはっきりしているか、点検をすべきだ。永遠のいのちに関わる問題だから、うやむやにしてはならない。

けれども、いつまでも一タラントで満足してはならない。神は私たちと清算される(19節)。私たちが神の御前に出るときが来るのだ。そのとき、神は私たちのどこを見られるだろうか。何を清算されるのだろうか。いかに忠実だったか、という点で清算されるのだ。

たとえの中の主人は、五タラントを預けた者にも、二タラントの者にも「わずかな物に忠実だったから…」と言った。賜物には五、二、一と比較するほどの相違がある。しかし、主人のほめ言葉は、「善かつ忠なる僕」(21,23節文語訳)だ。主人の目から見れば、それぐらいの差は何でもない。主人の目の付け所は、忠実だったかどうかというところなのだ。

神が見られるのは、私たちがどれだけ成功を収めたか、どれだけ頑張ったか、どれだけそつなくできたか…ではない。どれだけ真実に従ったかだ。真の忠実とは、どんな小事にも忠実なことだ。大事には忠実だが、小事にはいい加減というのでは、忠実とは言えない。

真に忠実な魂は成長する。結実がある。その実とは、救われてもまだ神の御心に喜んで従えない自我、肉を十字架につけて、己に死んで、キリストが内に生きてくださるという信仰で生きる者になった魂の内側に結ばれてくる御霊の実だ(ガラ5:22,23)。そして、いただいた救いを他の人びとにも伝えたいと願って、救霊の愛をもって祈った結果、結ばれてくる伝道の実(ヨハ15:16)だ。

やがて主は戻って来られる。私たちは、再臨のキリストの前で清算される時が来る。私たちが預かっているタラントはどうなっているか。主から「善かつ忠なる僕」と言われる者になりたい。主に信任される魂になりたい。

「たくさんの物を任せよう」(21,23節)と、主から信任されて、御国の財産の管理者にしていただこう。ただし、そこでも必要なものは謙遜だ。「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」(口語訳では「ふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません」)(ルカ17:10)と言って、主の前にひれ伏そう。