主に従う者
ヨハネ8:1-12
今日の箇所のテーマは罪だ。イエスの前に一人の女性がおり、その周りを囲むようにして彼女を連れてきた人々がいるという構図だ。
まず、この女性のほうから見ていきたい。姦淫の現場を取り押さえられ、言い逃れることもできないまま、イエスの前に連れてこられた。彼女は覚悟を決めたことだろう。ところが、石が飛んでくるどころか、このイエスという人が発した一言をきっかけに、人々が立ち去っていく。だが、イエスの一言は彼女にもはっきりと聞こえていた。「罪のない者」(7節)という言葉に、立ち去っていく人々同様、彼女も心を刺されたはずだ。そして彼女は悟った、目の前にいるイエスという人こそ、罪のないお方なのだ、と。
ついに誰もいなくなりイエスと彼女の二人だけになったとき、彼女は腹をくくった。ところが、この方も自分をさばかないと言われ、「これからは、決して罪を犯してはなりません」と言われた(11節)。彼女は考えたことだろう、“なぜ、この方は私にさばきを下さなかったのだろうか”、また、“罪を犯さずに生きることなどできるのか”と。やがて、十字架の上のイエスを見たとき、彼女はきっと悟ったことだろう、“この方は、私の身代わりにさばきを受けてくださった”、また、“この方による救いによって、罪を犯さずに生きることができる”と。彼女はイエス・キリストの救いを確かにいただき、罪を犯さない生き方を送っただろう。
罪の問題を抜きにして、キリストの救いはあり得ない。私たちも、言い逃れのできない罪人だった。確実にさばきが下され、滅びる存在だった。そんな私たちの上に、さばきではなく、赦しが与えられた。神のひとり子キリストが私たちの身代わりに罪を背負って十字架にかかり、さばきを受けてくださったからだ。どんな罪を犯した者でも、罪を悔い改め、キリストの十字架と復活を信じるならば、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる(1ペテ2:24, 1ヨハ1:9)。罪を犯さない生き方を始めることができる。
続いて、この女性を連れてきた人々に目を移したい。憎きイエスを陥れるために、彼らは策を練った。イエスを窮地に追いやるための罠をはらんだ巧みな策だった。ところが、返答を迫る彼らに対して発せられたイエスの言葉に、その場にいた全員が声を失った。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」(7節)。律法には、死刑に処する際の教えが細かく定められており、それによれば、証人がまず石を投げなければならないとある(申17:7a)。その件において、潔白な人が証人となるはずだからだ。それが発展され、成就したとき(マタ5:17)、汎用的な意味で「罪のない者」となるのだ。
そもそも彼らが持ち出した、姦淫を死刑に定める律法の箇所(レビ20:10, 申22:22)には、男女とも引き出されなければならないとある。さらに、その箇所には、悪を除き去るようにという、神の御心も明言されている(申22:22)。罪を除き去るようにという神の御心が、律法の目的だ。それなのに、彼らは、律法にも神の御心にも従うどころか、自分たちの憎悪と妬みという罪を増幅させるために、律法を利用した。そんな彼らの心の底部に光は当てられた。この光は、自分たちの内側には罪しかないことを彼らに気づかせるのに十分だった。
あなたの心の底には何があるのかという光は、私たちにも当てられている。明確なキリストの救いをいただいた者は必ず、この光に探られる。すると、自分の中にはやはり罪の実態しかないことに気づく。それらを捨て去らなければ、私たちはやはり罪のために滅んでしまう(2コリ6:14-18)。罪を十字架につけて始末するとき、キリストが私の内に臨んでくださり、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19,20)。私たちはわが内におられるキリストによって、罪を犯さない生き方を生きることができる。
12節に、「わたしに従う者」とある。罪を抱えたままでは主に従うことはできない。罪の問題に解決をいただき、内に生きてくださるお方によって、私たちは主に従うことができる。