私の助けは主から来る
詩篇121:1-8
詩篇121篇は、有名な詩篇の一つだ。何か助けが必要なとき、この詩篇によって励まされ、信仰を回復していただいた人は多いだろう。だが、今日はさらに深く、この詩篇に込められた神のメッセージを受け取りたい。
まず冒頭で、詩人は山に向かって目を上げている(1節)。だが、山は神ではないから、何の助けも来ない。そして、「助けは主から来る」(2節)とつながる。天地万物を創られた、全能の主への信仰告白だ。詩人は助け主である神を見出し、主の揺るぎない助けと守りを確信する。「たましい」(7節)という言葉から、詩人が必要としていたのは、自分の魂についての助けだったとわかる。様々な問題が起こり、私たちは様々な助けが必要となるが、全ての解決につながる助けは、私たちの魂の問題、罪と滅びからの救いだ。その助けを与えることができるのは、天地万物を創られた全能の神以外にはいない。
さらに、前後の120-123篇と合わせて読むとき、今日語られているメッセージが鮮明になる。120篇の冒頭では、詩人は苦しみの中にあって主を呼び求めている(1節)。彼の苦しみとは、彼の魂が「偽りの唇 欺きの舌」(2節)の中にあることだった。詩人が、誰か第三者からの脅威に直面していたのかもしれない。だが、「私のたましいを」とあることから、やはり魂の問題なのだ。詩人はここで、自分がいかに偽りと欺きに満ちているかを悟り、自らの魂が罪にまみれているかに愕然とし、かつ、ここから助け出していただきたいと叫んでいるのだ。
私たちは、神を知らずにいるとき、偽りや欺きの中にどっぷりと浸かっていた。神から遠く離れた罪の姿だ。そのままでは滅びてしまう存在だ。しかし、一度神を知り、それが罪であるとわかったとき、そこから救い出していただきたいと願う(詩18:4-6, 使徒2:37)。この罪の自覚、すなわち、認罪をしっかりと経た人の内に、キリストの救いが始まっていく。キリストは、神から遣わされて来られ、十字架にかかって死に、死からよみがえられた。このキリストの十字架と復活こそ、私たちを罪と滅びから助け出すための神の救いの方法だった。罪を自覚した者が、その罪を悔い改め、キリストの十字架と復活を信じるとき、その罪は赦され、滅びから永遠の命へと移される(2コリ5:21, 1ヨハ1:9)。このようにして罪の解決と滅びからの救いこそ、神が私たちに与えてくださる最大の助けだ(2コリ6:2)。私たちの「たましいを守られる」(121:7)主は、必ず私たちを助けてくださる。
123篇にも目を向けたい。ここにも「たましい」が出てくる(4節)。ただ、「安逸を貪る者たちの嘲りと高ぶる者たちの蔑みでいっぱい」だ。「安逸を貪る者たち」も「高ぶる者たち」も誰か第三者のことというより、自分の中に渦巻く神に逆らう性質のことだ。前者は、安きに甘んじ、不勝利の生活を続けようとする怠慢、後者は、自分はこれで良いと思い上がり、それ以上神を求めようとしない傲慢。どちらも、神に喜ばれない肉の性質だ(ロマ8:8)。
神の助けをいただき、明確なキリストの救いを受け取った者は必ず、このような罪の性質が内側に残っていることに気が付く。それに気が付き、逃げたりごまかしたりせずに、神のもとに出ていくのを神は待っておられる。詩人は、それに気が付いた。だから今度は、山ではなく、最初から真っ直ぐに神に目を上げた(123:1)。ここに詩人の信仰の成長を見ることができる。私たちも、真っ直ぐに神に目を上げ、神の憐れみによりすがって(123:3)、信仰によって肉の性質を十字架につけて始末するとき、キリストが内に臨んでくださる(ガラ5:24, 2:19b, 20a)。私たちの内側に住み、働いてくださる。私たちは、内におられるキリストによって、いつも神の助けをいただき、神の御心に従って生きる者となる。
「私の助けは主から来る」と、私たちも告白しながら歩みたい。魂の助けをいただき、導いていただきたい。