私たちの歩み
使徒3:1-10
使徒の働きは、その名の通り、使徒たちのどのように働いたかを記した書簡だ。十字架と復活を経たイエスが、天に昇られた後、使徒たちはイエスが語られた約束の聖霊を待ち望んだ(1章)。五旬節の朝、ついに彼らの上に聖霊が臨んだ。聖霊に満たされたペテロは、集まってきた人々に向かって罪を示し、キリストの救いを語った。それを聞いた人々は罪を悔い改め、キリストを救い主として信じ、ここに地上初めての教会が誕生した(2章)。このような流れから明らかなように、使徒の働きは、聖霊の働きであり、また教会の働きでもある。しかし、使徒にせよ、聖霊にせよ、教会にせよ、働きが進められるための土台は一人一人の歩みだ。この意味において、今日の箇所は非常に重要な位置を占めている。
今日の箇所に登場する足の不自由な人に、まず罪の中に生きる私たちの姿を見る。神に創造された私たちは、いつも神の前を歩む存在だった。しかし、罪が入り、私たちは神の前を歩むことのできないばかりか、神が歩まれる音を聞いて、恐れて隠れなければならない者となり(創3:8)、自らは地上をさまよい歩く者となった(創4:12)。この足の不自由な人のように、罪の中に身を置き、罪に支配された存在だった(エペ2:1-3)。このような私たちの行き着く先は、滅びだ。しかし、神は私たちが滅びるのを憐れみ、キリストの十字架と復活によって、救いの道を開いてくださった。足の不自由な人が要求されたのは、見ること(4節)、それも期待をもって見ること(5節)、次に、御言葉を聞いて素直に信頼すること(6節)、さらに、右手を差し出すことだった(7節a, 詩73:23)。どれも意志と求める心と信仰が伴うアクションだ。私たちも、自分の罪を悔い改め、キリストに目を注いで、十字架と復活を信じるとき、罪の赦しと滅びからの救いが与えられる。罪の中から立ち上がり、救いの道を歩き出すことができる。
また、足の不自由な人に、肉のままで生きる私たちの姿を見る。はっきりと救われ、キリストを信じる者として歩き出した者は必ず、肉の性質がまだ残っていることに気づく。歩き出したと言いながら、またもや罪の中に座り込んだり、神の前を歩いていると言いながら、己の意のままに歩いている実態があることに気づく。自分の歩みを神の光に照らされたとき、これでは神に喜ばれない。そのままでは、神殿に入れないこの人のように、終わりのときに神の前に立つことができない。しかし、私たちが自分の実態をそのままにせず、それを十字架につけて始末するとき、キリストが私たちの内に臨んでくださる。十字架を見上げ、信仰の手を伸ばして自らを十字架につけるとき、キリストが、私たちの手をつかみ、私たちの内に立ち上がってくださる。「躍り上が」(8節)るとは泉が湧き上がるという意味の言葉だ。決して尽きないキリストという泉が、私たちの内に湧き上がる(ヨハ4:14)。私たちは、内に生きてくださるキリストによって、強く歩むことができる。「くるぶし」(7節)という言葉が、強められた彼の信仰を表す。くるぶしは、体重を支え、力強く踏み出すための力を生み出す部分だ。キリストが内に働くと、私たちの霊のくるぶしが強められ、硬く歩んでいくことができる(コロ1:10)。キリストを通して湧き上がる泉を湧き上がらせながら、神を賛美しつつ、信仰によって神の御前を歩んでいくことができる(2コリ5:7)。
私たちも、自らの歩みがどうなっているかを点検したい(エペ5:15)。キリストの救いをいただいて歩き出しているのか、内なる主によってくるぶしを強めていただいているか、光を当てていただきたい。