主の救いを見なさい
出エジプト14:10-25
イスラエルの民は、430年間の奴隷生活に終止符を打ち、出エジプトをした(12:40,41)。彼らは、追い立てられるようにして、意気揚々と出国をした(12:33)。そこに至るまで、モーセは何度もファラオに交渉したが、彼は頑固に拒否し続けた。次々と神からの災いが襲ったが、ファラオはますます心を頑なにし、民を去らせようとはしなかった。
その彼も、すべての長子が撃たれることになって、徹底的に打ちのめされた(12:29,30)。自分の国民がいかに困っても崩れなかったファラオも、最愛の我が子が撃たれた時、崩れた。
災いは、子羊の血が塗られたイスラエルの家には及ばなかった。主は血を見て過ぎ越された。出国は子羊の血によった。
イスラエルの民がエジプトを去った後、ファラオは再び心を頑なにし(14:5)、軍隊を率いて追撃した。民の宿営地にファラオの軍勢が迫った。前は紅海だ。武装していない彼らは、絶体絶命の危機に立たされた。
身勝手な民はモーセを非難したが(10-12節)、モーセは落ち着いて、主が戦われるから黙っていよと答えた(13,14節)。彼が冷静沈着だったのは、主に絶対的に信頼していたからだ。
民が信仰に立ち、主に委ねた時、主は立ち上がられた。エジプト人も追ったが溺れ死んだ。真の神を信じる信仰がなかったからだ。イスラエルの圧倒的な勝利だった。
出エジプトは私たちが罪から贖いだされることを表している。私たちが罪から救われたのは、キリストの血による(1ペテ1:18,19)。私たちの功ではなく、主の血の功だ(ロマ3:24)。キリストの血は、私たちの立つべき拠り所だ。
神は私たちに「今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい」と言われる。主の救いとは、まず罪からの救いだ。イスラエルの民は出エジプトをした。私たちに当てはめれば、罪からの救いを表わす。私たちは自由を謳歌しているようであっても、罪の奴隷だ(ヨハ8:34)。
イエスは、十字架にいのちを捨てることによって、そんな私たちを自由にしてくださった。罪の悔い改めと十字架を信じる信仰によって、私たちに罪の赦しが与えられ、罪の縄目からの解放が与えられた。
さらに主の救いとは、肉の性質からの聖潔だ。天地創造の後、神は人間をエデンの園に置かれた。神のかたちに創造された人間は、神との豊かで自由な交わりに生きた。しかし罪を犯した。神の言葉に背いたのだ。罪とは神への反逆、神に対する敵対だ。これが性質としての罪だ。キリストの救いはこの性質としての罪からの聖潔まで与える。なぜならキリストは十字架の上で救いを完成されたからだ(ヨハ19:30)。
この十字架を信じる信仰によって、私たちは古き人の支配からの解放をいただくことができる。十字架に古き人を付けて、己に死んで、キリストがわが内に生き給うとの信仰に啓かれるのだ。
この救いを得たら、神が私たちに御心を明確に示し、私たちが喜んで従うという、エデンの園での神との交わりが回復され、私たちはこの豊かで親しい神との交わりに生きる者になる。これを与えるのがキリストの救いだ。バプテスマのヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」と言った(ヨハ1:29)。キリストこそ、私の罪、汚れを全く取り除くお方だ。「しっかり立って」と言われる。私たちが立つべき所は、十字架への信仰だ。
「主があなたがたのために戦われる」と言われる。私たちの全き救いは、主の戦いだ。いつまでも罪と汚れの中に閉じ込めておこうとするサタンと、主が戦われる。十字架と復活ですでに勝負はついている(ヨハ16:33)。勝利の主が先に進まれるから、私たちも勝つことができる。