ノアは神とともに歩んだ
創世記6:5-9、7:11-16
ノアの箱舟は、おそらく聖書の中の最も有名なストーリーの一つだろう。しかし、聖書を丁寧に読むと、箱舟よりもノアという人物に光が当てられていることに気がつく。むしろ、彼がどのように神の前に歩んでいたのか、という点にこそ、神からのメッセージがある。
まず、「ノアは神とともに歩んだ」とある(6:9)。これと同じ記述を前の章に見ることができる。エノクについての記事だ(創5:21-24)。彼こそ「神とともに歩んだ」と称される人物で、死を見ずして天に引き上げられた(5:24)。彼はそれほど神への信仰を貫いたのだ。彼は、神に喜ばれていたと、まだ地上にいる内から証されていた(ヘブ11:5)。彼がいなくなってからも、その証は語り継がれていたと想像できる。そして、4代後のノアの耳にも届いた。一人の人の信仰を貫いた証は、たとえ世代を隔てても受け継がれていく。おそらく、ノアは、エノクについての証を聞き、心に刻んだのだろう。そして、自分もそのような生き方がしたい、と求める心が起こったのだろう。求める心に対して、神の導きは豊かに与えられる(ヘブ11:6)。
「ノアは主の心にかなっていた」とある(6:8)。直訳では“主の目に恵みを見出した”となる。神が人を造ったことを悔いるほど、悪を極めていた時代だ(6:5-7)。しかし、エノクのように、神とともに歩む者になりたいと願うノアの心は、神の心にかなった。私たちも、救いを求める心によって、主の目に恵みを見出すことができる。私たちの生かされている時代も、悪がはびこっている。人の心は悪へと突き進み、確実に世は終局に向かっている。しかし、このような時代だからこそ、救いを求める心は主の心にかなう。キリストの十字架と復活こそ、神が私たちを救うために与えてくださった恵みだ(ガラ1:4)。キリストの十字架と復活を信じる者は、どんな罪も赦され、滅びからの救いをいただくことができる。ノアは、ここがスタートだった。私たちも、救いをいただいてスタートを切る者となりたい。
「ノアは正しい人で、…全き人であった」とある(6:9)。神の目に正しく、汚れのない心を神に献げて生きた、という意味だ。「わたしの前を歩み、全き者であれ」とアブラハムは神から御声をかけられた(創17:1)。神は私たちにも、全き者となっているかと光を当てられる。明確なキリストの救いをいただいた者は、やがて救われてもなお心に残る肉の思い、罪の性質、情欲を優先させる己があることに気がつく。私たちも自分の肉の姿に絶望し、神の前に出て取り扱っていただく必要がある。肉をキリストの十字架の上につけて始末するとき、キリストが内に臨み、内に生きてくださる(ガラ5:24, 2:19b, 20a)。私たちは、内に働いてくださるキリストによって、全き者として歩むことができる(ロマ12:2)。
このような彼に、信仰が試される出来事が起こった。箱舟建造だ。人間的な目から見れば、何の兆しもないときから、陸地に舟を造るようにというのが神からの命令だった(6:13)。彼は信仰に立って、神に従った(ヘブ11:7)。全て神が命じられた通りにした(6:22, 7:5)。そして、人々に神に立ち返り、箱舟に乗るようにと呼びかけた(2ペテ2:5)。彼の言葉に耳を傾け、箱舟に乗った人は救われた。私たちにも福音を伝えることが託される。これが先に救われた者と教会に与えられる使命だ。私たちも信仰によってこの使命を果たしていく。しかし、この福音宣教の使命には期限がある。その期限とは、戸が閉じられるまでだ(7:16)。戸が閉じられるときは必ず来る(ルカ13:25)。
終わりの時代、私たちはまず自分自身が戸の内側に入れる者、神とともに歩む者となっているかを吟味したい(黙3:4)。そして、滅びゆく人々のためにとりなし、福音を伝える使命を果たしたい。