みこころに従う喜び
詩篇40:1-17
本篇は、サウルにいのちを狙われ、逃避行(とうひこう)をするという苦しい状況の中でダビデが歌った歌だ。「滅びの穴」「泥沼」(2節)は危険な状態を表す。しかし彼は、主は救い出してくださったと歌う。現実はまだ救われていないが、必ず救い出してくださると確信する先取りの信仰だ。
救い出されたから賛美するのではない。信仰のゆえに賛美するのだ。状況は変わらない。依然として危倹であり、欠乏だらけだ。しかし、ダビデには主への信頼ゆえに喜びがあった。
その秘訣は、神のみこころへの従順だ(6-8節)。「わが神 私はみこころを行うことを喜びとします…」(8節)とはキリストの姿だ。ヘブル書の記者は、キリストの姿としてこの詩篇から引用しているが(ヘブ10:5-7)、「あなたは私の耳を開いてくださいました」(詩40:6)を引用して、「唯(ただ)わが為に体を備へたまへり」(ヘブ10:5文語)とした。キリストは神の栄光を捨て、人となり、肉体を備えられて神から遣わされて来られた。神のみこころに従うためだ(ヘブ10:7)。神のみこころとは、全人類の贖いだった。
「汝わが耳をひらきたまへり」(6節文語)は、ある訳では「汝わが耳を穿(うが)ち給へり」だ。七年めの贖いの年、解放されずに主人のもとにいることを願う奴隷は、戸または柱にキリで耳を刺し通された(出21:1-6)。それは主人への徹底的な従順のしるしだった。耳に穴が開けられたら、神に聞き従う耳になるのだ。これもまたキリストの姿だ。キリストは、みこころへの従順な御方としてこの世に来られた(ヨハ5:19、8:29)。主が十字架上にかかられたのは、ただ唯々(いい)諾々(だくだく)父のみこころに従われた結果だった。
主の従順は、私たちの贖いのためであり、主が私たちを贖ってくださったのは、私たちをも従順な魂とするためだった。不従順で頑なで傲慢で強情な私たちのために、キリストは十字架にかかられた。私たちが自己の真相が分かり、このままでは嫌だと思って十字架のもとに行くなら、十字架の深い意味が分かる。そこにキリストと共につけられたと信仰をもって決算し、虚しくなった魂に、キリストが内住される(ガラ2:20)。みこころにのみ従われたキリストがわが内に住まわれれば、私たちもみこころに従順な者になるはずだ。
詩40:8は、キリストのお姿であるだけでなく、私たちの姿になる。「あなたのおしえ」とは内住のキリストだ。キリストが私の内に生きておられる、という信仰で生きるのがクリスチャンだ。
従えと言われて従えるものではない。しかし、そこで“所詮(しょせん)そんなもの”と諦めるだろうか。いや、それでは主が満足されない。自分も満足できないはずだ。どんな時でも、どんな事にも、ただみこころのままに従うことを、内なる主によって喜ぶ魂となる。高い標準だが、高嶺の花ではない。大切なことは、こちらが渇いて求めるかどうかだ。
キリストのごとくなりたい。主のように力ある奇跡を行う者になるとか、力強い証しをすることができる者になるとかいうより、主のように、いつでも、どこでも、みこころに従う者になるのだ。
ダビデの賛美はこの信仰から生まれた。いかなる状況の中でも、内に在すキリストを仰ぎ、御旨が成ることを最大の喜びとしたい。私たちは何を喜ぶにまさって、みこころに従うことを喜ぶ者になりたい。