万軍の主の熱心
Ⅱ列王記19:1-7,20-37
先週はアサ王についての記事が開かれた。今日はそれから約200年後、10代の後の南ユダ王国の王ヒゼキヤについての記事が開かれている。ヒゼキヤ王は、真の神に心から仕え、神に喜ばれる信仰を表した。それは、一大宗教改革という形で表れた(2列王18:3-7)。詳細は歴代誌の並行記事に述べられている。王の座に就いた彼が真っ先に行ったのが、荒れ果てた神殿の補修工事だった(2歴代29:3)。だが、それはただの工事に終わらず、祭司たちやレビ人たちの信仰の回復へとつながった(2歴代29:15,16)。さらに、南ユダ王国と北イスラエル王国の全国の民に向かって、真の神に立ち返るよう呼びかける大きなリバイバルへと発展した。王が全国に向けて遣わした急使に託された布告の言葉に、彼の揺るがない信仰は表明された(2歴代30:8,9)。これを聞いて従った人々は集まり、長く途絶えていた過越の祭りが行われ、町々に溢れかえっていた偶像を徹底的に破壊した(2歴代31:1)。
しかし、そのようなヒゼキヤにも試練が訪れる。強大なアッシリア帝国の脅威だ。紀元前722年、北イスラエル王国にアッシリアが攻め上り、首都サマリヤが陥落。北イスラエル王国が滅亡する。アッシリアは周辺の国々をも脅かし、南ユダ王国にも兵を向けた。ヒゼキヤは恐れ、金銀を差し出してこの危機を乗り切ろうとした(2列王18:13-16)。勇気と信仰をもって宗教改革を断行した彼が、ここでは神に助けを求めることなど忘れてしまったかのように、人間的な策に走っている。試練は、私たちの一番弱いところが試される。弱いところを突かれて、それでも神に目を向けるか、神を信じるか、神に従うかと問われるのだ。ヒゼキヤの努力も虚しく、結局、反乱の兆しを見抜いたアッシリア王の元から将軍ラブ・シャケ率いる大軍が送られた。ラブ・シャケは、ユダの人々が聞いている前で、真の神とヒゼキヤを侮辱し、降伏して捕囚となるよう呼びかけた(2列王18:19-22、28-31)。
ラブ・シャケの傲慢な言葉を聞きながら、おそらくヒゼキヤは我に返り、神への信仰を働かそうとせず、神により頼もうとしなかった結末を思い知ったことだろう。彼は、神の前に出て、悔い改めと神に助けを求める祈りをささげた(2列王19:14-19)。これが転機となった。神の前にへりくだって出て、悔い改め、より頼むときこそ、神がみわざを表してくださる絶好の機会となる。ヒゼキヤの祈りは神に聞かれ、預言者イザヤを通して、神の言葉が語られた。そして、不思議な神のみわざによって、アッシリア軍は一夜にして全滅し、ヒゼキヤとユダ王国は危機から助け出された。
今日、特に目を留めたいのは、30,31節だ。「逃れた者」、「残された者」とはレムナントと言われる言葉だ。神の試練に耐えて残り、全滅したかのように見えるところから回復し、神の御心に生きる人々のことだ。「下に根を張」るとは、へりくだった心で神の御心を尋ね求めることだ。そのように生きる者が、神の豊かなみわざに与り、「上に実を結ぶ」。「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」とあるが、「熱心」とは、ねたみとも訳される激しい熱情を意味する。神はねたむほどの愛から私たちを深く憐れみ、御子キリストを送ってくださった(ヨエ2:18,19)。キリストが成し遂げてくださった十字架と復活を信じるなら、私たちは神の救いに与ることができる。しかし、それで終わりではない。救われた後なおも、神に逆らい、背き続ける罪の根が私たちの内側にはある。その罪の根が十字架につけられて始末され、内住のキリストによって内なる宮が建て直されるまで、ねたむほどの神の愛は満足されない(ゼカ1:14-16)。ねたむほどの愛をもって、神はキリストを私たちの内に住まわせ、私たちを聖なる者、レムナントとしてくださる(ゼカ8:2,3)。
万軍の主の熱心は私たちにも注がれる。私たちもへりくだって神の前に出て神に近づき、神のみわざに与りたい(ヤコ4:4-10)。