一粒の麦として
ヨハネ12:20-43
この聖書個所は、受難週の火曜日の出来事だ。イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた(1節)。そして、マリアからナルドの香油の注ぎかけを受けられ(1-11節)、その翌日、ロバの子に乗ってエルサレム入城された(12-19節)。どこまでもへりくだられた主のお姿だ。
パリサイ人たちの敵意は深まり、イエス殺害の策謀が本格的にめぐらされた。そのような緊張感漂う時、過越の祭りに礼拝するため上京中のギリシア人たちがイエスを訪ねてきた(20,21節)。彼らは、イエスを王と認めて謁見を求めたのだ。
イエスは、「人の子が栄光を受けるその時が来ました」(23節)と言われた。ユダヤ人たちはイエスを十字架に追いやり、その結果、救いはまず異邦人から始められることになった。ギリシア人たちの訪問を受けて、主は十字架の時がいよいよ近づいたことを痛感されたのだ。
そういう中で「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ…」(24節)と語られた。麦が実を結ぶためには、種である麦が地に落ちなければならない。落ちただけではなく、死ななければならない。死ぬとは、麦たることをやめ、芽を出すための供給源に徹することだ。そうするなら根を張り、芽を出し、穂を付け、豊かな実を結ぶようになる。
イエスは、ご自分の死をさして一粒の麦と言われたのだ。イエスは地に落ちて、十字架の死を遂げられた。「わたしが地上から上げられるとき…」(32節)とは、ご自分の死に方を自覚しておられた言葉だ。イエスの死は、十字架の上で遂げられるのでなければならなかった。イエスの十字架の血によらなければ、私たちの救いはあり得なかったのだ(ヘブ9:22)。
私たちは、主の十字架によって、罪と滅びからの救いをいただくことができる。罪を悔い改め、十字架を信じるだけで、誰にでも与えられる恵みだ。救われたら、主を愛し主に仕えたいと願う。
イエスは「わたしに仕えるというのなら…」(26節)と言われた。主を愛し主に仕えるには、主に従わなければならない。イエスがそうされた。いつも父なる神に信頼して歩まれた主は、ゲッセマネの園で、神から捨てられるという杯が取り除かれることを願いつつも、「御心がなるように」と、父の御旨に従われた。主は、神のあり方を捨てられないとは考えず、己れを捨てて御心に屈服し、十字架の死にまで徹底して従われた(ピリピ2:6-8)。
私たちも、神の御心に従順に従って主に仕えていきたい。これは、自分に死ななければできないことだ。一粒の麦とは、イエスだけではなく私たち自身のことだ。主は私たちのために十字架に死なれた。同時に、私たちのわがまま、強情な自我をも共に十字架につけてくださった。神の御心に従うより自分の思いのままに生きたいという自己の強情な姿を“嫌だ、それで生きる者にはなりたくない”と思って、古い自分が十字架に死ぬというところを通って、キリス卜内住の恵みをいただきたい。そしてキリストが内に住み給うという信仰で、真に主に仕える者となりたい。
イエスのように神に仕えたい。主がいかに一粒の麦として己に死に、御心に従われたかに倣いたい。高い標準だが、主の約束だ。主が真実をもって約束を果してくださる。こちらはただ信じて従うだけだ。恵みにより信仰によって主に仕える者とならせていただこう。そして、栄光を見る者とならせていただこう。