信仰の土台
ローマ3:21-31
人生の土台は魂の救い、罪からの救いだ。罪と言うと、自分とは関わりがないと思ったり、聞きたくないと思ったりするかもしれないが、この問題に正面から向き合うことなしには、話は始まらない。
私たちは法廷に引き出された被告人のようだ。証拠も証人もそろっている。死刑が求刑された。誰も弁護してくれない。やがて有罪判決が下される(19,20,23節)。全く絶望だ。「しかし今や」(21節)、弁護人たるイエス・キリストが現れた。彼は私たちを弁護される。“この者たちの刑を私が引き受けた。ここに十字架という証文がある。彼らは無罪だ”と。判決が下る。無罪判決だ。
神の前に罪のない者は皆無であり(10節)、聖なる神の前に私たちすべての者は罪人だ。しかし、そのような私たちを神は見捨てず、キリストによる救いの道を開いてくださった。キリストの十字架を信じる者はすべて罪が赦されるという救いの道だ。律法を行った者、熱心に奉仕をした者、知識を豊富に貯えた者ではなく、「信じる」者が頂くことができる救いだ。
そもそも人間は神のかたちに、つまり、神との交わりの中に生きるように創造された。しかし、人間は神に背き、神のかたちは破壊され、神との交わりは失われた。人間に残された道は、神の方法によってのみ回復される道だ。罪のために滅ぼされるべき私たちは、キリストの十字架を信じるだけで、罪の赦しの救いを頂くことができる。
神は私たちの罪を完全に、徹底的に赦してくださる(ミカ7:19、イザ38:17、エレ31:34、イザ44:22)。さらに神は私たちを義と認めると言われる。義認とは、生まれてから一度も罪を犯したことがない者として受け入れられることだ。私のような者が、価なしに、無償で義と認められて神に受け入れられるとは!
神は、この恵みを現すために、罪なき神の子イエスを十字架におかけになった。これが神の方法だ。これにより、罪に呪われた私たちは、呪いの結果たる滅びから救い出される。そのためには、宥(なだ)めの献げ物、神の怒りを鎮める犠牲が必要だった(1ヨハ4:10)。神の子イエスがその犠牲になられた。これにより、私たちは差別なく神の前に罪赦された者とされる。あまりにも虫のよい話だが、これが福音だ。
25節から、キリストは、①人の手によらず、神がお定めになった宥めの献げ物であること、②罪なき子羊の血による献げ物であること、③私たちが信仰によって受け取るべき献げ物であることがわかる。このキリストによって、神がいかに真実なお方か分からせられる。
キリストの十字架によって神がご自分の義を明らかにされた(25節)とは、神が私たちにご自身の正しさ、聖さを譲り渡されたということだ(1コリ1:30、2コリ5:21)。神の義が私たちのものになるとは、驚くべきことだ。条件は信仰だけだ。イエスと共に十字架に付けられた犯罪人は、何の功もなかったのに、パラダイスの約束を頂いた(ルカ23:43)。彼は、罪を悔い改めてイエスを信じただけだったが、それで十分だった。
すでに救われた者は、罪が赦された恵みを感謝しよう。もし赦されたという確信がないなら、神の前に出よう。謙虚に罪を悔い改め、十字架を仰ごう。
罪の赦しと義認の土台をしっかり据えなければ、次の恵みである聖潔(きよめ)に進むことができない。信仰の土台を据えよう。今が恵みの時、救いの日だ(2コリ6:2)。