イエス一人
マタイ17:1-8
今日の箇所は、イエスの姿が変貌した記事だ。イエスは、なぜペテロたちにこのような御姿をお見せになったのか。ペテロが後に残した書簡の記事(2ペテ1:16-19)から次のように汲み取ることできる。
- 彼らを目撃者とするためだった。
彼らの「目の前で」(2節)栄光は現された。彼らを「目撃者」(2ペテ1:16)とするためだった。肉体の目というよりも、霊の目で、深く体験するということだ。彼らは、イエスの栄光を体験したのだ。私たちにとって、これはキリストの救いを指す。私たちも、キリストと出会い、キリストの救いに与るとき、目撃者となる。彼らの目の前に現れたモーセとエリヤは、ルカの並行記事を読むと、イエスが十字架にかかることについて語り合っていたとある(ルカ9:30,31)。つまり、彼らが目撃したのは、十字架の事実だったのだ。私たちも、霊の目をもって、キリストの十字架を見る必要がある。キリストが、私たちの罪を身代わりに背負って十字架にかかってくださり、救いを成し遂げてくださったという事実だ。これが、つまり信仰に裏打ちされた明確な救いだ。それが救いの始まりだ。見たつもりになっていて、ちゃんと見ていない、ちらっと目を向けただけという程度になっていないか。自分の救いは明確かどうかを点検したい。
- 彼らに御声を聞かせるためだった。
彼らは、見ただけでなく、神が語られた声を聞いた(5節, 2ペテ1:17,18)。同じ声が、イエスがヨルダン川で洗礼を受けられた時に降った(マタ3:17)。この神が信任する声が、今この時、再び降った。しかも、「彼の言うことを聞け」(5節)とある。キリストの救いに与った者は、神に信任された神のひとり子キリストの声に従っていく。キリストが神の御心に従われたように、私たちも神の御心に従うためだ。御言葉が語られ、御心が示されるところに出て行き、自らの内側に光を当てていただく。当てられる光に従い続けていくならば、やがて自分の内側に残る罪の根に行き着く。救われた後なおも内側に残る汚れだ。イエス以外のものに目を奪われ、イエスの声が聞こえていても聞こえないふりをし、自分の肉が好むままに生きようとする自己の本性だ。私たちが、こうした罪の根を放ったらかしにせず、信仰をもって十字架につけて始末するならば、キリストが私たちの内側に臨んでくださる(ガラ5:24, 2:19,20)。私たちの内に働き、私たちに語り続けてくださる。私たちは、いつでも内なる主の声に従って歩む者となることができる。そのような者を神は喜んでくださり、「これはわたしの愛する子」と信任の声をかけてくださる。
- イエス一人にだけ目を留めることを教えるためだった。
彼らが目を上げたとき、そこには「イエス一人のほかには、だれも見えなかった」(8節)。輝く御姿も、モーセとエリヤも、わきおこる雲も全てなくなって、彼らの目にはイエス一人だけが見えていた。ペテロも後に、暗闇に輝くたった一つの灯火であるキリストに目を留めるようにと語っている(2ペテ1:19)。私たちがキリストに従って行くとき、様々なものが私たちの目に映り込んでくる。しかし、私たちが目を留めるべきなのはイエス一人だ。ペテロは嵐の湖で、水の上を歩いてこられたイエスに向かって、自分も水の上を歩いて傍に行かせていただきたいと願った。イエスがお許しになったので、彼は水の上を歩いてイエスに近づいた。しかし、途中で彼は強風を見て怖くなった。イエスから目を離したのだ。途端に沈み始めた彼を、イエスは手を伸ばして引き上げてくださった(マタ14:28-31)。この体験を通して、ペテロはイエスに目を留め続けることの大切さを学んだのだ。
私たちの目には何が見えているだろうか。イエス一人が見えなくなってはいないか。私たちの救い主、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないようにしたい(ヘブ12:2)。