礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2023.02.05

ただお言葉をください

マタイ8:5-13

この百人隊長のしもべの癒やしの記事から、信仰とは何かを考えさせられる。

イエスはカペナウムの住まいに帰って来られた(5節、4:13)。そこへ、しもべが中風で苦しんでいると百人隊長が訴えてきた。その容態は重く、瀕死の状態だった。イエスは彼に、「行って彼を治そう」と言われた(7節)。主は憐れみ深いお方だ。

百人隊長は異邦人であり、しかも、ユダヤ人から嫌われ憎まれるべき圧政者ローマの官憲だった。しかし、彼はユダヤの長老たちから推薦されるほどの信望を得ていた(ルカ7:4,5)。

イエスが彼の所に足を向けようとされたのは、彼が地位ある人だからでも、推薦されているからでもなく、ご自分の所に来て求めるからだった。主は、謙遜と信仰をもって求める者に応えてくださる。

第一に、彼の求めは謙遜に徹した求めだった。彼は「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は…」(8節)と言って、主の来訪を辞退した。異邦人であることを自覚していたのだ。

誇り高いローマ人は決して自己卑下しない。しかし彼は、イエスを前にして、自分は救いからほど遠い汚れた者だと知った。神の子のイエスの前に、民族的な誇りなど何でもない。自分は救われがたい罪人だと認めていたのだ。

第二に、彼は御言葉の権威への信仰を持っていた。彼は「ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます」(8節)と言った。軍隊では上官の命令は絶対であることを彼はよく承知しており、日常よく経験していた。人間の言葉でもその通りなるのだから、まして神の子イエスの言葉ならそのとおりならないはずはないと確信していた。それは、「癒やされます」と断言するほどの固い確信だった。神の言葉は必ず成就する(イザ55:11)。この御言葉への絶対信頼を、この異邦人は持っていた。

イエスは彼の言葉を聞いて非常に感心された(10節)。そして、「イスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません」とまで言われた。こういう信仰は、本来はイスラエル人が持っているべきであり、神がイスラエルに期待された信仰だった。しかし、彼らにはそれが失われていた。彼らは、旧約に預言されたメシヤがイエスと信じなかった。だから彼らは、裁かれることになるのだ(11,12節)。

百人隊長の信仰は、神の御言葉への絶対信頼だった。この信仰を主は喜ばれ、「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように」(13節)と言われ、実際にしもべを癒やされた。彼の信じたとおりになった。

信じれば成る。成るかどうかは、御言葉の力と私たちの信仰の力だ。神が喜ばれるのは信仰だ(ヘブ11:6)。神の主権と私たちの信仰を学ぶべきだ。神が“こうする”と言われた御言葉は必ず成る。しかし、私たちが“成る”と信じなければ、成らない。厳粛だ(ルカ1:20)。

私たちは何を求めるか。健康か、家族の無事か、仕事の順調な伸展か、成績の向上か。全てにわたって信じたとおりになる。しかし、私たちが求めるべきものは、何を差し置いても自らの魂の救いだ。キリストの十字架で罪が赦されるという救い、さらには罪を犯させる自我が十字架に死んで、キリストがわが内に生き給うという全き救いが、自分のものになるようにしたい。

信じたとおりになる。ただし、漠然と信じるのではない。従っていくのだ。意志を働かせて、具体的に、どんな小さな光にでも従うのだ。

そして、私たちが求めるべきことは、家族や祈っている人が救われることだ。信じたとおりになる。

キリストが再臨される日が近い今日、主の前に立つことができるために、いよいよ御言葉に信頼し、御言葉を求めよう。神は御言葉を通して御業を現される。