礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2023.01.29

いのちの水の泉

ヨハネ4:1-15

今日の箇所の舞台であるスカルの町は、旧約時代のシェケムだと言われている。今日の箇所で触れられている通り、ヨセフが譲り受けた土地であり(5節, 創48:21,22)、ヤコブが掘ったとされる井戸のある(6a, 12節, おそらく創33:18-19)歴史のある町だった。しかし、井戸のことは旧約聖書に記録されていない。聖書が語るのは、シェケムにおいて、ヤコブが祭壇を築いたということだ(創33:20)。祭壇は神への礼拝を表している。本来、礼拝とは儀式でも慣習でもなく、私たちが神の前に出る心のことであり、いつでも神の前に出ることができるという私たちの生き方そのもののことだ。それであるのに、いつしか祭壇は忘れられ、朽ち果ててなくなり、人々の記憶にも実利的な井戸だけが残ったのではないだろうか。実際、ヤコブがシェケムに住んだ記事を読むと、祭壇を築いた直後に、彼の子どもたちによる凄惨な殺戮事件が起きていることがわかる(創34)。祭壇を築いたヤコブの歩みが、実は神の御心に従ったものではなかったという実態が具現化したのだ。これは彼の痛恨の失敗であり、挫折だった。しかし、この事件の後、神は彼を取り扱われ、本来彼の行くべき土地が示され、祭壇を築き直すように、もう一度神の前に出るように導かれた(創35:1)。神は、ご自分の御心へ立ち直らせるために、失敗や挫折をもお用いになる。どんな失敗や挫折からでも、神はみわざを起こされる(ヨブ5:17,18, イザ44:22)。

さて、このようなヤコブの背景を持った町に、キリストは足を運ばれた。ユダヤ人が嫌って行くことのないサマリア人の土地であっても(9節b)、キリストには関係なかった。一人の女性と出会うため、彼女を導くためだった(4節)。ヤコブのこの土地における祭壇の背景があって、今日の箇所の続きで、キリストと女性の会話が礼拝のことに発展したことは、神の導きだった(19-24節)。彼女もまた、ヤコブのように、男性関係における自分の罪の失敗を引きずり、神の前に出ていくことが必要な魂だったからだ。キリストは彼女に不思議な渇かない水のメッセージを語り(13,14節)、彼女の求める心を引き出された(15節)。そして、罪に光を当て(16-18節)、礼拝の問題、つまり、神の前を生きる者の生き方を指し示された。このように、まずキリストと出会うこと、そして、語られる御言葉を聞き続け、恵みを求めること、そこから、罪を取り扱っていただき、神の前に出ること。私たちもこの道順を辿って、いのちの水の泉をいただくことができる。

私たちにとってのいのちの水の泉とは何か。まず、それはイエス・キリストの救いだ。私たちは罪のために神から離れ、滅びる存在だった。そんな私たちのところに、神は御子キリストを遣わしてくださった。キリストは十字架にかかって死に、死を破ってよみがえられた。キリストの十字架と復活こそ、私たちに与えられた泉だ(ゼカ13:1, 14:8a)。キリストのもとに来た者は、その泉からいのちの水を飲むことができる。自分の罪を悔い改め、キリストの十字架と復活を信じる者に与えられる永遠のいのちの約束だ。肉体の命が終わりを迎えても、神のもとで永遠に生きることができるという約束だ(ヨハ11:25,26)。

さらに、泉とは、内に住んでくださるキリストだ。明確な救いをいただいた者は、なおも自らの内側に汚れた罪の性質が残っていることに気が付く。気が付いて、神の前に出て取り扱っていただき、信仰によって十字架につけて始末する者は、内側にキリストに来ていただくことができる。内にキリストに住んでいただく者は、内に生きて働いてくださるキリストと共に歩むことができる。真の意味において、心の奥底からいのちの水を湧き上がらせ、川となって流れ出させ、自らのみならず他をも潤すことのできる者となる(ヨハ7:37,38, 黙22:1,2)。

私たちも、いのちの水の泉を持つ者となりたい。スカルの町の一人の女性のように、語られる御言葉を聞き続け、泉を求めていきたい。そのようにして求める者に必ず与えられる(黙21:6)。