礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2023.01.22

汝はわがものなり

イザヤ43:1-13

本書、とくに40章以下には、主の恵みに満ちた、慰めの御言葉が多い。イスラエルは南北朝に分裂し、北王国はアッシリアにより紀元前722年に、南王国はバビロニアにより紀元前586年に滅亡した。南のユダ王国のエルサレムの住民は70年間、バビロン捕囚となった。不信仰、背信の罪の報いだ。

惨めな捕囚生活の中で、彼らは罪を認め、悔い改めた。そういう彼らを神は決して見捨てず、回復の預言を与え、弱り果てた魂に励ましを与えられた。40章から慰めの御言葉が多いのは、回復・慰めのメッセージが始まっていくからだ。

その中でも本章には、贖いの恵みの素晴らしさが述べられている。ユダヤの民の総称として「ヤコブよ…」「イスラエルよ…」(1節)と呼びかけられているが、私たちのことと考えてよい。私たちは神によって、神のかたちに創造された(創1:27)。神と交わることができる存在として、つまり神の御言葉を聞き、御顔を拝し、応答できる者として造られたのだ。裸を恥ずかしいと思わない、つまり神の前に恥じることなく出られる者だった。

しかし罪を犯した。神の命令に従わず、木の実を食べた。神のかたちは破壊され、御前から隠れなければならない者になった。裸を恥と思い、そのままでは出られない者になった。

そんな私たちを神は見捨てられなかった。御子キリストを送り(ヨハ3:16)、十字架にかけられた。キリストは「わが神、わが神…」と叫ばれた。捨てられるはずのない神の子が、父からさえも捨てられたのは、捨てられるべき罪人の私たちが捨てられないためだった(2コリ5:21)。価値も資格もない私たちは、ただ神の恵みにより(ロマ3:24)、キリストの十字架を信じる信仰のゆえに救われる。

悔い改めと信仰を通らずに明確な救いはない。まず、救いの恵みをいただきたい。認罪-悔い改め-十字架信仰を曖昧(あいまい)にして、救いが不明確なクリスチャンになってはならない。

こうして神は、ひとたび神によって創造されたにもかかわらず、罪によって神のかたちが破壊された私たちを、キリストの十字架によってもう一度創造し直された。私たちをご自分の所有とするためだ。

しかし、救われただけでは、まだ神のものとなっていない。わがままで、自分が一番かわいく、従いますと言いつつ従わない者で、その時の調子によって上がったり下がったりという情けない者だ。魂のど底に住みついている自我、古き人、肉のためだ。そのままで神が満足されるはずがない。使徒パウロはその自分の醜い姿を直視し(ロマ7:15,17)、絶望の叫びを上げ(同24)、キリストの十字架を仰いだ(ガラ2:19,20)。

私たちも、そこを通って、キリストが内に生きてくださるという信仰に啓かれた者になりたい。この恵みを頂くとき、主から「汝はわがものなり」と言っていただいた者になる。

神の所有とされた者は、①神に愛せられる者になる(4節、ヨハ14:21)。②神の証人として遣わされる(10節、使徒1:8)。③困難に負けない(2節、ロマ8:31,37)。そのような魂になりたい。私たちが神の所有とされることは、誰よりも神が切望される。そのための十字架、血潮だった。神が実現してくださる(13節)。信じて渇望しよう。

終末の近いことがいよいよ痛感させられる今の時代にあって、恵みを確かに頂いて、備えをしたい。