礼拝者の姿
マタイ2:1-12
今日は、最も有名なクリスマスの場面の一つである、博士来訪の記事だ。ここから、礼拝者の姿を学ぶことができる。
まず、幼な子キリストを囲んで描かれる、三通りの人に注目したい。一通り目は、ヘロデだ。博士たちから新しい王の誕生を聞き、彼は動揺した(3節)。この動揺は、神の取り扱いのチャンスだった。神殿で御使いを見たザカリヤも同じように動揺し、そこから神の取り扱いが始まった(ルカ1:12)。しかし、ヘロデは、それを拒み、本心を偽り(8節)、ついには自分を動揺させる発生源を排除するという非道へと走った(16節)。神は、私たちにも光を当て、取り扱おうとされる。キリストが私たちのところに来られたのは、私たちに取り扱いの鋭い光を当てるためだ(マタ10:34)。ヘロデは光を拒み、憎んだ(ヨハ3:20)。
二通り目は、祭司長たちや律法学者たちだ。彼らもヘロデと同じく、新しい王誕生のニュースに動揺した(3節)。だが、彼らは、ただヘロデの問いに、ベツレヘムで救い主が生まれると預言されていると答えただけだった。聖書に精通していた彼らは、救い主誕生の預言をちゃんと知っていた。しかし、その知識は信仰とはかけ離れ、彼らに救い主のところへ行く心など微塵も起きなかったのだ(ルカ11:52,1ヨハ2:4)。どんなに聖書を知っている、礼拝を守っていると言っても、その心を動かそうとしないならば、神の光は届かない。形ばかりの信仰の全く伴わないクリスチャンができあがるだけだ(ヤコ2:26,黙3:1b)。
三通り目は、博士たちだ。彼らの中に、真の礼拝者の姿を見出すことができる。まず一点目は、求める姿だ。彼らはヘロデに新しい王は「どこにおられますか」(2節)と問うた。創世記3:9に、罪を犯して神から隠れようとする人を探す神の言葉、「あなたはどこにいるのか」がある。聖書はこの二つの「どこに」で始まる。二つの「どこに」は“私の魂はどこにいるか”と集約される。これが求める姿だ。
罪を犯して神を離れた私たちのために、御子キリストは遣わされた。それは、十字架の死を通して罪の赦しと救いを与え、神に立ち返らせるためだ(1テモ1:15)。キリストの十字架を信じて罪を悔い改める者は誰でも、救いをいただくことができる。救われた者は、魂のおるべきところをキリストに見出し、神に見出していただく(ルカ19:10)。
真の礼拝者の姿の二点目は、へりくだる姿だ。博士たちは幼な子を前にして、ひれ伏して礼拝した(11節)。徹底したへりくだりの姿だ。高慢な姿勢では真の礼拝者となることはできない。また、見せかけの謙遜そうなものも、神の前では通用しない。神の前に出る者は、敬虔と恐れをもたなくてはならない(ヘブ12:28b)。神の前にへりくだる者に、神は豊かな恵みを注がれる(1ペテ5:5b,6)。
三点目は、献げる姿だ。礼拝した博士たちは、宝の箱を開けて贈り物を献げた(11節)。徹底してへりくだる者は、最も大切にしているものを神に献げる。宝の箱とは彼らの心のことだ(マタ6:21)。彼らは心を開いた。私たちも、心を開き、神より大切にしているものをキリストに献げるならば、キリストが内に臨んでくださる(黙4:10,11)。
四点目は、キリストを避け所とする姿だ。礼拝を終えた博士たちは、別の道から帰っていった(12節)。真の礼拝者は、前と同じ道は辿らない。新しい別の道をキリストが備えてくださるからだ(ヘブ10:20)。それは、キリストを避け所とした生き方だ。キリストは、インマヌエル(私たちと共にいてくださる主)として来てくださった(マタ1:23)。それは、私たちが、内住のキリストと共に生きるためだ。そうしてキリストと共に生きる者が、キリストに心を注ぎ出し、キリストに導かれ、キリストを避け所として歩んでいくことができる(詩篇62:5-8,73:23-28)。それこそ、真の礼拝者としての歩みだ。
神は真の礼拝者を求めておられる(ヨハ4:23)。クリスマスの今、自らの歩みはどうかと神の前に問われたい。