不思議な助言者
イザヤ9:1-7
今日の箇所には、キリストに関する2つの預言が記されている。1つ目は1,2節で、福音書にも引用されている(マタ4:12-16)。2つ目は6,7節で、キリスト誕生の予告だ。キリストは、はるか昔を生きたイザヤによって、誕生を予告されていた。今日は、この中の「不思議な助言者」(6節)を中心にして教えられたい。
まず、何が不思議なのか。それは、私たちの上になされた神のみわざのことだ。すなわち、滅びる私たちを救うために、神のひとり子が神の姿を捨てて、人となられたこと、さらに、十字架の死と復活によって、私たちの救いが成し遂げられたこと、そして、キリストの十字架と復活を信じることによって、罪の赦しと滅びからの救いを始めていただき、完成していただくことだ。これが、私たち一人一人のために神が備えてくださっている不思議だ。私たちは、クリスマスを迎えるにあたって、そのクリスマスの意味を知っているか、キリストの十字架と復活が何のためかを悟っているか、そして、キリストの救いを受け取って、救いを始めていただいているかを、まず問われたい。
次に、助言とは何なのか。この言葉は、忠告、最良の選択肢、また、思慮、計画という幅広い意味を含んでいる。旧約聖書の時代、王は助言者を立てるのが一般的だった。助言者は、顧問官としての役割を担い、思慮深く、適切な忠告を王に告げた。王は、助言者の助言を頼りにして様々な計画を立てた。だから、助言者の助言は、最良の選択肢であり、思慮や計画そのものだった。ただし、王が、助言者の助言を退けたり、耳を貸さなかったりするケースもあったし、自分の気に入った別の助言者の助言を採用する場面もあったことが、聖書に見受けられる。助言を聞くかどうかは、その人次第なのだ。
さて、神は、私たちに対しても、みことばを持って語り、助言・忠告を与えてくださる(詩32:8)。私たちは正しい道へと導かれることができる(イザ30:21)。何より、救いの完成という正しい道へ導いてくださる(ヘブ12:2)。そのための計画は、神によって明確に立てられている(エペ1:7-11)。つまり、私たちがどうすればよいのかが、はっきりしているということだ。私たちの内側には、救われてもなお罪を犯し、神に敵対し、肉を押し通す本性がある。そうした本性がどういうものなのか、何が自分の中にあり、何が自分から出ているのかを目を逸らしたり、ごまかしたりせずに認め、十字架の上につけて捨て去るならば、キリストが内に臨んでくださり、内に生きてくださる。キリストに内に生きていただく者は、いつもキリストの助言に従い、キリストと共に歩むことができる(詩16:6-8)。クリスマスは、キリストがこの地上に臨まれ、生きてくださったときだが、そのキリストが、今度は私たちの内側に臨み、生きてくださる。
だが、上述の王たちのように、私たちは別の助言者の声に聞くこともできる。神の助言とは相反するサタンの声だ。サタンはまことしやかな顔をもって私たちに言い寄り(2コリ11:14,2:11)、悪しき道へと導こうとする。私たちは意志と信仰をもってサタンを退けたい(マタ4:10)。そして、神の助言を選び、従っていきたい(詩1:1)。
最後に、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」(7節)とある。同じ表現が、イザヤ37:31,32に使われている。残りの者(レムナント)の預言だ。キリスト誕生とレムナントは密接につながっている。キリストが内に臨み、生きていただく者は、レムナントとしてこの地上を生きるからだ。キリスト再臨を待ち望みながら、キリストの救いを知らない人々に福音を伝え、自らの信仰を守り通していく生き方だ。
2000年前にキリストの誕生という不思議は、主の熱心によって成し遂げられた。私たちのうちに、助言者キリストを与えてくださるという不思議も、主の熱心によって成し遂げられることを、私たちはアドベントを迎えた今、心に深く留めたい。